思い出した、幸村です。
二日程前、何を書くつもりだったのか忘れたあの日、これを書くつもりだったのだ。
USEN(有線)のPRキャンペーン抽選で、二等を引き当てた。
これ・・・。
結局は御断りしてしまったのだけれど、当った時は固まった(笑)。
幸村はこれまで、近所のビンゴゲームやら学校の抽選会やらで、当った例がありません。
・・・けしごむとかなら俄かに(笑)。
だから余計にビビッたのだ。
その日、ワタクシは母の買い物に付き合っていたので御座います。
モールで目当てのものを物色後、ウロウロする親子(怪しい意味じゃなくて・・・)。
その時、USENキャンペーン会場を通過。
「ああ・・・。有線良いなあ・・・。家で聞けたら最高だよなあ・・・」
甲斐田姐さんの、英語講座が聞きたいんだっっ!!
あと、
甲斐田姐さんと竹内姐さんの有線ラジオ番組が聞きたいんだっっ!!
動機が不純なのはわかってるさ・・・。
でも、語学のチャンネルも沢山あるじゃんか・・・。
だから欲しいなあって。24時間だし。
でもスルーしてしまった(厳密には、母が先へ行ってしまった。)。
その後、どうしても捨てがたいサンダルに遭遇。
買うか否かを散々迷った挙句、買っても痛くて長時間は履けないだろう(買っても意味が無いとも言う)
ということで、涙を呑んでさようなら。
ああ・・・、あんなにラインが綺麗に設計されたサンダルが、あの値段で売りに出されていたのに・・・。
ワタシの嫁には来られなかった・・・。
後ろ髪を全部引っ掴まれてグイグイ引かれつつ、靴屋を去る。
そろそろ帰ろう、と言う母がアイスクリームを買っている間、
気に掛かっていたUSENの会場へ。
まだお兄ちゃん達がキャンペーン中。
フラ~っと通ってポスターとかを見ようとしたら、声を掛けられた。
「20歳超えてますか?」←USENのお兄ちゃん
え?と思いつつ答えると、抽選箱を差し出される。
ビール券が当ったらどうこうって言っていた。
へえーとか思いつつ、手を入れてボールを一つ取り上げた。
ピンク。
「あ、ピンク・・・。ビール券?」とか思ってたら、
「二等ですよ・・・?ピンク」
ええーーーーっ?!
どうやら、未発売のUSENチューナーとアンテナ、リモコンの三点セットが当ったらしい。
私はこの時思った。
これは、さっきの靴を買わんかった分のツキやな・・・!
くどい様ですが・・・籤引で何かを当てたことがありません。
ガラポンとかでも、参加賞以外出た例しがないもの。
まさか、通りすがりに引いた籤で10万相当が当るとは予期する筈も無く・・・。
一応、説明を受ける幸村。
向こうのベンチで、アイスを食する母。←アイスに一所懸命母。
それによると、何と有線は、
日本国内のラジオは勿論、世界中のラジオが聞けるとか。
有線全400数十局も聞けるとか。
何か、色々聞けるらしい。
「すごいぞ!欲しいぞ!」
と思ったものの、やはり現実は甘い話だけで済む筈が無かった。
・・・これだから、アタイはぬるい奴なんだと自分にツッコンだとも(苦笑)。
有線聴取可能装備(最新で未発売)をセットでプレゼント
&
入会金はロハ ←無料。
=
だいたい10万くらい浮く?
+
本来ならば二年契約が必要だが、キャンペーンで当った人は一ヶ月でも解約可能。
→
おいしいね!
でも、月々の料金6000円は必要。
これだ・・・。
これだった。
幸村が砕かれたのは。
そうだよな・・・。
著作権物の専門放送だもんな・・・。
そして冷静になる幸村。←金銭が絡むとシビア。
実際、一月6000円も払う程、聞くだろうか?
いや、聞かない。(即答)
だって、甲斐田姐さんの番組くらいしか聴かないだろう?
うん、そうだろう。(即答)
今の自分に、それだけ支払う余裕はあるのk―――
いや、ない。(質問より答えの方が早かった)
そんなチンケな理由で、折角の二等を断念したワタシ・・・。
でも、欲しいなあと思っていたものがタイミング悪く逃げてしまう時、
いつも思います。
「きっと、今の私には必要ないものなんだろうなあ」
USEN然り、あの超素敵サンダル然り。
自分に差し迫って必要ならば、かならずその「もの」は手元に落ちるようになっていると思うの。
何かしら理由があって、欲しくても手に入れられないものは、
まだその時期じゃないんだろうなって。
だから、余裕が出来たとか、本当に必要になった場合に買えば良いかなーって。
まあ、残念だったけどね。
幸村以外の御人に、大事にしてもらってくださいませ~。
届きましたよ!幸村です。
「ふしぎ工房症候群シリーズ 『鬱の行方』」
ああ、暗い!!(笑)。
本当に暗い・・・!(苦笑)。
全体的に何ともこう・・・兎に角、暗い・・・(笑)。
折角、調子の波が上がる周期なのに、また堕ちそうだ・・・(マジで)。
最後は希望的観測なのか、販売物故なのかは判じかねるけど、そうなって良かった><
あそこで逆にきてたら、あたしはもうこのCD、二度と聴けなくなってたヨ。
だってそれじゃあ怖いじゃん((ブルブル・・・))
でもね、アタシの経験を置鮎の兄貴が代わりに読んでくれてるみたいで、嬉しいかも。
設定や場面は違うけど、症状も気分も、同じだもん。
聴いてて、本当に自然と涙が出たよ。
感動したとか、そういう情緒的なものに心を動かされたんじゃなくて、
ただただ首肯するばかりでさ。
僕の場合は、鬱ではない別のものだけど、語られる心理経験は同じだから。
死にたいっていうのは、違うけどね。
ただ、鬱や自律神経の病気を患ったことの無い人がこの話を聞くと、
心療内科について誤解しかねない。
少なくとも、僕の知る方々は、こんな感じじゃない。
心療内科のドクターと患者は、生理的な一致不一致がとっても大事だと思うから、
自分と合わないドクターだと、通うのは大変だと思う。
その場合は、無理して通うより、病院を変えたほうが治療には良い。
あと、やっぱりこの作品は小説なのだなと思う。
現実のくだりは、そう簡単にはいかない。
そう言えば、本当かどうか分からないけど、鬱病は二週間で治るんだって。
「二週間、ただひたすら他人を喜ばせることだけを考え続け、行動し続ければ、治る」らしい。
人を喜ばせることで、自分の殻の中、自分の泥沼の奥へ堕ちていくことから回避するらしい。
確かに、「誰かの為に」と考えていれば、自分のことばかりでいっぱいいっぱいにならずに済む。
そうだろうなあ。人のことを考えてれば、自分にかまけてる暇なんてないもの。
でもそれは、他人に気遣う余裕があるなら、の話だよね。
もう、自分にいっぱいいっぱいになってるんだもん。
周りを見回す余裕があれば、一人で堕ちるところまで堕ちたりしないんじゃないかな。
「鬱病とかは、自分のことばかり考えてしまうからそんなふうにダメになるんだ」って、
心無い人に言われたことがある。
それは事実だとしても、本人には言うものじゃない。
あんたの心にしまっとくべき文句だ。
「だったらどうしろって?じゃあさ、もう何も考えずに苦しまなくて済む方法があるなら教えてよ。
俺だって、好き好んでこんな頭を抱えてるわけじゃない」
僕には、そんな気持ちしか出てこなかった。
逆効果以外の何物でもない。
そもそも、自分が何に悩んで苦しんで、不眠の夜にのた打ち回って、割れるような頭痛の所為で一日中うずくまって動けなかったり、昇った日が沈むことをただ待ち続けたり、覚えたくも無い絶望の感覚を覚えたり、碌に物も食えずにいるくせにたまに物を口にすれば決まって吐き気に襲われたり、生きてて何があるのか、自分はこのまま生きていけるのかさえ・・・
もうわかってないんだ。
その辺のテレビで見かじった文言を、知った風な口で
「あんたは自分のことだけを考えてるからそうなるんだ」なんて吐いたところで、
反感しか買わないよ?
あ・・・勢い余ってつい・・・。
言葉遣いが・・・;
でも、今がどんなに辛くても、鬱や自立神経系の病気は、
どんな道程を通るとしても、治る可能性の方が高いと思う。
その長い治療期間、大切なのは周囲の協力、姿勢、そして理解。
何か良くない状況にあって、それを乗り越えようと必死に心が叫び続けてることに、
自分が気づいてあげて、向き合うことが出来るか。
その人の心が、何かのきっかけでひきつけを起こしていることを、周囲が認めてあげられるか。
何とかしよう何とかしたいと懸命になっていることを、周りが察してあげられるか。
息継ぎ出来ずに一杯一杯になった人の心と付き合い、
その傷ついてる心が癒える、又は回復するまで、
どれだけ掛かるか分からない時間の中で、ずっとずっと支えてあげられるか。
そんなことが沢山起こる。
本当の意味で、周囲の人間の器がみえたりする。
鬱だとか自律神経の病気とかは、かからないと、わかれない。
どんなに理解しようとしても、人の心は分かち合えないもの。
それは、鬱や病気だけに限らないけれど。
イタミは、自分が感じた分しか分からない。
ちょっとやそっとの知識と感覚で物を言うのは、相手を一番傷つける。
出だしは暗いけど希望を語ってるんで徐々に上向きになる内容です、幸村です。
例えば、失敗を許されないとしたら。
きっと、あの瞬間までの僕なら、
「じゃあ、ある程度先を見越すことが可能なこっちでいいや。安全だし」
と、誰にも見抜かれない自信を以って塗り固められた作り笑いを浮かべてた。
「本心」よりも「体裁」が大事。
他所様の眼、世間の風当たりに拘る周囲を想像しながら、
弁解と言う名の弁明を都合良く並び立てる。
小さい頃から無意識の行為になってて、
それで周りを納得させる事に何ら問題は無かった。
でも、自室で一人の時、軽蔑を籠めて薄く笑う。
勿論、自分自身に。
だけど、そんなことにももう慣れた。
自分に愛想を尽かせれば、何も悩むこともなかった。
諦めと絶望を身につければ、結構楽に生きられる。
例えば、彼等は反対するだろう事が、火を見るより明らかだったとしたら。
きっと、あの瞬間までの僕なら、
「彼等がそう望むなら、それでいい」
と、「良い子」を演じているつもりでいた。
だって、何言ったって仕方ないもの。
こっちの話、真剣に聴いてくれたことなんてなかったし。
だから、いつの間にか、彼等に自分の夢は語らなくなった。
いつだって聞き分けの良い「優等生」でいるだけで、
向こうはとっても満足そうだった。
「自慢だ」って。
だから僕も満足そうに笑ってみる。
「良かったね」って。
限りなく他人事として捉えられるようになれば、
自分に嘘を吐くことくらい、何も感じなくなる。
でも気づく。
いや、やっと受けとめたんだ。
自分で自分の 「心」 を、抱きしめただけ。
それまでだって、
自分の 「本心」 なんて眼を瞑ってたって抉り出せる程、
痛いくらい分かってた。
臓物が口から出そうな程。
気持ち悪いくらいに。
ずっとずっと、もう一人の自分を監禁する気持ちで押し込めてた。
気づいたんじゃなくて、その扉を、抑えきれなくなっただけ。
多分、自分が進歩したとか正直になったとか、そんなんじゃない。
もう、限界だった。
それだけ。
口癖になってた。
「あの頃は、夢は夢でしかなくて、現実じゃなかったのに」
「夢は理想であって、苦しむ為のものじゃなかったのに」
限界にくるずっと昔は、こうなりたいっていう夢を思うと、
楽しい気持ちになって、ワクワクして、ドキドキしたり、すっごく楽しかったんだ。
理想の自分を頭に描くだけで、「心」が温かくなった。
でも、限界に近づけば近づく程、
夢はドス黒くて、「心」を押し潰す為の重い重い鉛でしかなくなった。
僕は、それに耐え切れなかっただけなんだ。
「心」を、得体の知れないものへ変わっていく夢に食い破られていた。
食われる痛みに、耐え切れなかっただけ。
必死になって重い鉛を押し返してたけど、ダメだった。
ある時、音も無く潰れちゃった。
何かの拍子で、とか誰かの一言で、とかじゃなくて、
不意に潰れた。
そしたら、それまでシカトし続けた所為で溜まりに溜まったドロドロしたものが流れ出しちゃった。
「心」が押し潰されると、表面の薄い膜が破れちゃう。
僕の「心」は、まあるい形だった。球体。
害毒に変わった夢に押し潰されて、破れて形を失った中から、
これまで偽ってきた御陰で膿んでしまったらしいものが出てきた。
でも、見ていられるから不思議。
おぞましい光景でも、汚い景色でもないんだ。
「心」はもともと浄化されているものだから、
何て言うか・・・気持ち悪いとは感じない。
今になって思うけど、
あの当時、夢が「心」を押し潰すことになったのは、
とても大事なことだった。
これ以上膿み切れないってところまで膿んでしまった「心」の中身を、
一斉に洗い出してくれた。
ほら、表面は常に浄化されてるから、中がどうなってるのかなんて、
自分じゃ分からないからさ。
夢が潰してくれてなかったら、今頃はもう、僕の「心」は内側から腐ってた。
腐敗したものの辿り着く先は、一つしかない。
膿なら出せば傷口だって再生するけど、
腐ってしまうと、手の付けようが無い。
新しくなったまあるい「心」は、
再生する時に、自分を救ってくれた夢を中に包み込んだ。
「あれ、そんなとこで何してんの?」って。
・・・暢気なもんだよなあ、僕の「心」も。
「キミ、随分黒ずんでるね」って。
「あー、一人なの?じゃあ、一緒にどう?」って。
・・・寝ぼけてる訳じゃないんだけど、
どうも生まれ変わった僕のまあるい「心」はのほほーんとしていて、
眼が覚めたときに隣にいた少し焦げ付いた夢を、
何とか助けてあげないと!って思ったらしい。
「ねえ、こっちおいでよ」
ずっと、夢はその言葉を待っていたんだと思う。
「心」に、声を掛けてもらいたかったんだと思う。
幸村の中で、自分の夢を叶えたいと思うことは、
何となくだけど、禁忌とされていた。
だから、夢はずっと、「心」の中に入れてもらうことが出来なかった。
だって、「心」と一つになると、幸村は夢を求めることになるもの。
ずっとずっと、何年も何年もひとりぼっちだった夢は、
生まれたてで寝起きの「心」に仲間になって良いよって言われて、
ぽよんぽよんって弾んで喜んだ。
夢は、喋れないの。
幸村が描く、理想や空想でしかないから、実態が無い。
だから、「心」のように口を持たない。
ただ、形は「心」と似た感じの、まあるいもの。
でも、影はないの。
優しく柔らかくなった「心」が夢を包み込んで、
もとあった場所に戻り始めたら、
そうしたら、どんどん自分から輝きだした。
それまでシカトされて黒ずんでた「心」が、
僕に眩しいくらいの光でその存在を訴えてくる。
それは僕に、紛れも無い「本心」を認識させた。
「僕は、これを実現させたいんだ」って。
「本当は、この夢を叶えたくてもうどうしようもなくなってる」って。
実際、その当時は本当に生きた屍で・・・。
やっと、自分の「心」を直視した。
その瞬間、覚悟が生まれた。
「毎日毎日言ってるじゃん、いつかは死ぬって。
だったら、一度っきりの人生、博打をするのもありだろう。
『夢は夢でしかなかった』なんて、逃げてるだけだよな」って。
「兎に角、出来るところまでやってみようよ。
他人がどうこうじゃなくて、純粋に、自分はどうしたいのか。
それを、きちんと見定めなきゃ。
挑戦してたらどうなってたのかな、なんて
しみったれた後悔を一生引き摺るなんて真っ平御免だもの」って。
覚悟を決めた途端、苦しんでいたものが一切取り払われた。
「あれ・・・。生きることって、こんなに体が軽いものだったっけ?」って。
あの瞬間って、一生の内で見る一番のターニングポイントだと思う。
幸村が「心」から「覚悟」と呼ぶものは、生半可なものじゃない。
人生を賭することが出来るもの、それを「覚悟」と呼ぶことにしてる。
ただ、
僕には後が無い。
それを選んで突き進むなら、
その道程で失敗は許されない。
生きていくためには、大成する以外道は無い。
きっと、以前の僕ならそれはプレッシャー以外の何物でもなくて、
後退りして直ぐにでも手放してた。
今はね、覚悟があるから、怖くないの。
そりゃあ、不安は沢山あるけど、
上手くいかなかったらどうしようなんて悩む余地なんてありはしない訳で・・・。
「大成させればいいだけの話だ」って、今は思う。
だったら、やるしかないじゃない!
それに人生を賭けたこの夢を叶える目的は、自分の為だけじゃない。
幼い頃から誓ってることも、これの中で実現させないといけない。
色々、背負うものが多い。
だからもう、進むしかない。
正直言って、自分にはそれしかないとも思ってる。
あとは、自分の努力次第。
人生を賭けたんだ、命を託したも同然なの。
失敗したら、命は無いと思ってる。
いや、実際生きていけないんだよな・・・。
だから、すごく強気になれてるんだと思う。
このモチベーションを保ち続けていられるかどうか。
それが、僕の人生を支えられるかどうかと直結するなあ。
「心」が夢に押し潰された日、
僕は本当に生まれ変わったと思う。
ッシャ!!幸村です。
密やかなガッツポーズ、御覧頂いたと思います。
(冒頭の「ッシャ!!」を言いたいらしい。)
声が、確実に低くなってます。
ああ・・・。
これが努力の賜物というやつですね・・・なんて、
一人で感動に浸っていられなかったので、友人にメールしてみたり(笑)。
正確に言うと、
「低い声が出るようになりました」
又は
「低音域が拡がりました」
ですが。
遥か以前、書店で拝見したヴォイストレーニングの本に
「高音域は拡げやすいが、低音域は拡げようとして拡げられるものじゃない」
というような記述を眼にしました。
確かに、カラオケとかで歌いこめば簡単に高音域の地声は広がります。
←実際、地声の高音域はカラオケで伸びた。
そして低音は、出るようにはならなかった。
だから、諦めていたのだけれど。
甲斐田姐さんの音域の変化を聴いて、思い込みに気づいたの。
「ああ、あの本が書いてたのは、短時間での低音域の拡大は難しいってことだよな」と。
実際、低い声を獲得する為に努力し始めて四年経って、
ここにきて、一気に伸びた・・・気がする。
テープ録りしても、断然低い。
数ヶ月前まで苦しかった声が、今はすんなりでるようになった。
もう、本当に嬉しいですよー。
これは本当に、これまで頑張ってきた甲斐がある・・・。
・・・地声はもともと低かったけどね。
生物学的な同性と比べれば。
でもまあ、全てはこれからですよ。
理想通り、斎賀みつきさん並の低音が出せるようになったとしても、
それを保っていられるように、ずっとずっと、
今の意識と我流の訓練は続けないといけない。
練習を怠ると、きっとまた出なくなってしまうから。
でも、低い声を出す為の苦汁なら、幾らでも嘗められる。
だって、これまでずっと願い続けてきたものを手に入れられるんだもの。
その為の試練なら、大した事ないよ。
自分の人生だって、夢だって、何だって同じ。
本当に望んでいるものの為なら、辛いとか苦しいとか感じないはず。
周囲から見れば痛々しい光景でも、
本人にすれば楽しくて仕方ない場合もあるんじゃないかな。
そりゃ、色々と苦労はしてるんだろうけど、
それが気にならない心境にあると思う。
アタシにとって、低い声を出せるようになりたいっていう「夢」は、
そんな感じ。
これからも、大切にしていきたいなあ。
またレッスンに行きたいなあ、幸村です。
自慢だが!
小一くらいから接骨院や鍼灸院に通っているんだ。
小児料金って、本当に安かったよ。
学生も、結構安かったよ。
大人料金になったら、急に上がったぜ・・・。腰以上に痛いかも(苦笑)。
接骨院の先生曰く、腰と接続する辺りの背骨が歪んでいるらしい。
・・・へ、へるにあ・・・?とか思ったら、そうでも無いらしい。
ええ、ええ!そりゃもう!!昔から色々と腰痛には悩んでるさ。
肩凝りとかもすごいです。・・・児童の頃から。
一時期大変だったこともあるんだよねー。
でも、僕の場合は腰痛と言っても、腰の筋肉じゃなくて、骨が痛いんですよ。
椎間板関係?・・・やっぱりヘルニアなのかな・・・。
最近は落ち着いていて、御無沙汰してますけど。
あー、でも、長時間の電車は流石にツラかったなあ。
何とか保ちましたけどね!
昨日書いた低い声の為に腹筋を意識して使うようになったから、腰にかかる負担が減ったのかも。
兎に角、腹筋が弱くてね;
それが腰を悪くする原因の一つにもなったんですよ。
んー・・・中学の頃が一番酷かったかな。
ヴァイオリンを構えることも出来なかったもの。
そう、この楽器、結構腰にくるのよね(笑)。アタシみたいに腹筋が無いと。
だから先生と相談して、御椅子を用意してもらったりしたなあ・・・。
ああ、懐かしい・・・。辛かったけど、いい思い出。
ヴァイオリンって、きちんと構えていれば、全身の筋肉が鍛えられますよ~。
御陰で、ヴァイオリンを必死にレッスンしていた頃は、体が締まってたもの。
レッスンの時間を減らした途端、太りました。
指が顕著だったな。あと、腕も。
毎日毎日必死になって弾いてた頃は、指も腕も引き締まってたもんねー。
あー・・・また習いに行きたい・・・。
自分で譜面を買って練習したりするけど、直してもらえないと進歩してんのかどうか分からなくて・・・。
カセットに録って聴いたりするけど、やっぱりレッスンしてもらうのとは違うんだよね。
それに、習ってた頃って、まだまだ音楽に対する感覚が鈍かった。
先生が「ここはもっと優しく弾くといいと思うよ」って仰っても、ピンと来なかった。
「優しく」って言われるから優しく弾いてた。
言われた通りに弾いてたけど、自分がそれを理解していたのかというと、
答えはNo。
「表現する」ということの本質を理解し始めたのは、つい最近なんだ。
昔から、感受性が高いねーなんて言われてきたけど、自分が音楽を奏でる時に「こうしよう」「ああしよう」っていう転換が無かったなあ。
音読に関しては小さい頃から表現方法には拘ってたけどなあ・・・。
・・・何で音楽にそれを反映させなかったのだろう・・・。
ここ数年、自分の中で「心」について色々と問題を処理する必要に迫られてる。
それまでの十年くらいで蓄積されてきたものが、行き場を無くして一気に壊れただけなんだけど。
その状況を以って、何だかんだで一つ二つと山を越えた辺りで、
初めて自分から「こう弾きたい」「もっとこうしたい」って思うようになった。
それは、ヴァイオリンを弾く時だけじゃなくて、何をしても思う。
うまく表現したい、とかじゃなくて、
本当に自然と「ここをこう弾きたい」って、心の核から湧いてくる。
何だろう?
それを、「心」が求めてるって言えばいいのかなあ・・・。
感じることと表現することが、一つになってきたのかな?
だから、今ならヴァイオリンのレッスンも、本当に楽しみながら出来ると思う。
表現方法を追求することを、自分の中でしっかり認識出きるようになったから。
昔は、先生に弾き方を直されたり、力強くとか泣くようにとか言われてもよく分からなくて、完全に受身のレッスンだったけどさ。
これからなら、もっと貪欲になれるんじゃなかなあ、って。
直されるのも楽しくなると思う。
腰痛も、大分ましだろうし(笑)。
まあ、それもこれも、現状を打破しない限り不可能なんだけどね~。
でも、夢って、沢山あっても良いと思うから、いつかまた習いに行けるといいなって思っておこう。
「出来ないからなー」って、そこで願望を捨てちゃったら、何も残らないしね。
叶う、叶わないが大事じゃない。
「これがいいな」「こうなったらいいな」っていう想いを、諦めずに持ち続けることが本当の価値を持つようになると思う。
価値って、後になって分かったりすることが多いからね。
時間をかけて高まるものもある。
勿論、その瞬間にしかない価値もあるけど、「その瞬間が一番値打ちが高かった」って分かるのは、ずっと後になってからだったりする。
やっぱり、何よりも「諦めない」ことが大切なんじゃなかな。
沢山沢山夢があるなら、ずっとずっとその想いを大切にすればいいと思う。
実現させたいなら、無論のこと、その夢に見合う努力と覚悟が必要だけどね。
それでも、覚悟が出来ないから、とか努力するの苦手なんだよね、とか言って捨てちゃうのは、一番いけない。
叶わないって諦めるのは、早いと思う。
人生が幕を下ろす瞬間までは、早い。
そりゃ、年齢とか性別とか、制約は沢山あるけど・・・僕の場合、声だけを男声にしたいなんて言っても難しいけど・・・。(調べれば方法はあるだろうけどね)
諦めちゃったら、そこで御終いだもの。
何も続いて行かないじゃん。
命と同じ。
だからね、幸村は、夢があるならずっとずっと大切にしていきたいなーって。
色々困難はあるだろうけど、今すぐには叶わないけど、
超える谷や山の数が多ければ多い程、行き着いた時の喜びは大きい筈だから。
夢見てきたものと叶えたものの理想と現実が違うことは、あるけどね。
「私が願ってきたのはこんなんじゃない」ってことは多々ある。
私の短い人生にも、そんなものは幾らでもあった。
でも、それでも、そこに行き着く過程で起こったことでその人にとって無駄になるものは何一つ無い。
んー・・・、言い方が適切じゃないな・・・。
「無駄にさせない」って意識が無いと、無駄になるものばかりだから。
それはもう、その人自身の自己を研磨する意識の違いだから仕方ないけど・・・。
意識が高い人にとっては、全てが、そこから先の自分の糧となる。
人生において、意味の無い事なんて本当は無いんだもん。
意味を持たないと思うなら、自分で意味を持たせればいい、生み出せばいい。
他人に意味を与えてもらう事を待つ人は、いつまで経っても変われない。
自分自身も自分の人生も、自分じゃないと変えていけない。
だから、夢があるなら、
今は無理でもこの先どうか分からないんだし、ずっとずっと持っておくといいと思ってる。
機会なんて、いつ巡ってくるか分からない。
チャンスが来た時、直ぐに出せるよう、いつも胸の奥で温めてるから、幸村の中には本当に沢山、夢があります。
そりゃもう、大きいものから小さいものまで(笑)。
自分にとってプラスになるものなら、抱えきれない程持って歩いたって、辛くないじゃん。
抱えきれない程の、すっごく素敵で大きな花束を両手に抱いて歩けば、すれ違う人達の反応も普段とは違うだろうし。
「あの子、何かやってるよ?」
って、興味を持ってくれたらシメタもんじゃない?
「そう!アタシ、今からスゴイことしちゃうから!!」
って、宣言しちゃえば、もう後戻り出来ないし、突き進むだけ。
そうすれば、どんどん自分を変えていけると思う。
本当の意味で開き直ったら、それまで気になって仕方の無かったことが何ともなくなる。
それくらいの覚悟を決めたなら、清水の舞台にも立てるだろうし。
そこまで行けば、何も怖いものないじゃない。
だからね(笑)。
沢山沢山夢を持って、色んな人たちに吹聴すればいいなって、ある時思った。
結構良い意味で、今自分を追い込んでるところ。
欲張りなんですよ、幸村はね(笑)。
選択を迫られています、幸村です。
いや・・・、自分は随分前から、覚悟は出来ています。
岐路に立っているけれど、迷いなんて一つもありません。
もういつでも、足を踏み出すことは出来る。
ただ、周囲の同意を得られるか否か、という問題が残るだけです。
いつも言ってます。
人生って、一度だけ。
現在の自分が生きる現世(うつしよ)での人生はね。
世の中には、転生や生まれ変わりという考えがあります。
幸村は、否定しません。あっても不思議ではないと思ってる。
自分の前世の一つは、平安時代の京人(みやこびと)だったと信じ込んでいるし(笑)。
そう考えないと処理出来ないことって、結構あるもん。
でもね、
例え幸村という人間が、来世で転生し、新しい人生を歩めるとしても、
それはもう、来世の人間の人生です。
今、あなたに言葉を届けている私じゃない。
だからやっぱり、ワタシの人生は、一度きりなの。
それは、あなたも同じ。
人生は、一度きり。
今まで生きてきた中で抱えることになった喜びも後悔も、死ねば消える。
それだけだよね。
「実像」として眼に見える形で残るものは、何も無い。
ビデオ映像や声は、録画、録音といった形では残るけど、
本人が抱えるもの・・・想いとか願いとかは残らない。
ただ、生前、後世の人々に影響を与えて、彼等の中に生き続けることは、出来るかもしれない。
その中で、自分の信念を受け継いでもらって、ずっとずっと引き継がれることはある。
実際、世を去った後も、人の心の中に息づいている人は沢山いる。
でも、
世に残った人達の中に残る様相は、その人たち個人の主観で見てきたものであって、
描かれている人自身じゃない。
幸村で言えば、「幸村を見てきた人が描く幸村」であって、「幸村本人」じゃない。
「私自身」は、何も残らない。
それが現実だと思う。
(分かり難くてすんませんです・・・。この説明が、今の私には精一杯・・・。)
それって、単純に考えれば、
自分の本当の味を味わうことが出来るのは、自分だけってこと。
当たり前ですけどね。
他人の人生の味見が出来るなんて聞いたことないし、出来っこない。
出来ても、美味しくないと思う。
美味しいと思えても、永遠に楽しみ続けるってことは出来ないと思う。
他人の人生なんて、あくまで他人のものだもの。
どんなに強請っても自分のものには出来ないんだから。
ずっとその味を舐め続けることは不可能だから、余計に疲れちゃいそうだし・・・。
死ねば全てが白紙になる。
どんなに嬉しかったことも哀しかったことも、痛かったことも苦しかったことも、
ひょっとすると今抱えている、その嫌なものも全てが、きれいに消える。
自分の中からね。
そして、自分という存在も消える。
でも、
それで終わりだよね。
私は、自分から命を絶とうと思ったことは無いし、
自身で命を投げ捨てるという考えを分かち合えない。
それは、「幸村」という人生を、ここで終わるのが許せないからに他ならない。
今の自分にも今までの自分にも、満足なんてしたことないし、
これからの自分を、どこまで褒めてあげられるのかは分からない。
自分を心から愛してあげているとは言えないし、
今の自分、これまでの自分を許してあげることも出来ないまま。
だから、まだ死ねない。
今の自分に負けたまま終わらせるなんて、冗談じゃない。
幸村には、まだ遣り残したことが山程ある。
ただ、それだけ。
それ以外に、私が死にたくない理由は無い。
未練が残ってるんだよね、自分の人生に。
だから死ねないんだけど(笑)。
でも、それで充分かなって思う。
この歳で人生に何の未練も無く、自分の生き方に一片の悔いも無くて、
万事満足してますなんて、これからの人生ツマンナイだろうなーって思うから。
私が生きている、生きていく為の原動力の一部になってるかなあ。
「死にたい」じゃなくて、「消えればいい」と思ったことはあるんだけどね。
心が。
泡みたいに。
水が気体になるように、蒸発出来ればどんなに良いだろうって。
半年前、高校時代の友人と話してて、同じ想いを語った彼女に驚いた。
「この感覚、分かる人がいるんだ」って。
きっと、心が無くなれば、何も感じなくて済む。
そう思って、長い間生きた屍になってたけど・・・。
それでも、死ぬことは考えなかったな。
寧ろ「ここで死にたいって思える人は、楽だろうな」って思って羨んだくらいだから。
死ぬことに解決を求める事が出来るなら、現状がどれ程苦しかろうと、
「心」に逃げ場があるじゃない。
それは、「心が生きている証」だから、もし死にたいって思ったとしても、行動に移しちゃいけない。
逃げようとするその「必死な心」を、誰かに知ってもらおうとすることが先決。
逃げることは、この場合、何も悪くないと思う。
もがいてるだけだもん。
現実逃避と呼ばれる逃げる姿勢とは、まったく違うものだから。
それは、心が泣き叫ぶ衝動だと思ってる。
手に負えない激情は、通念で把握出来やしない。
言葉も体も、頭だって、対処しきれないことがある。
人間は、自分が知ってる事象でしか感情を表現出来ない。
極限まできた感覚を解放する為の方法を頭の中で考えると、
どれも自分が望む程満たしてくれなくて、
最終的に、行き着いてしまう。
「そっか。自殺しちゃえばいいんだ」
行き詰った人が自ら命を絶つには、もっともっと、色んな道程があるだろうけど、
私が経験した感覚からすると、こんな感じ。
私の場合は、命を消すことより、心を消すことだったけど。
この流れだったかな。
ずっとずっと、出口も見つからない中で悩んできて、
どうしようもなくなった時、ふっと思いついた。
「そうだよ。心がなけりゃ、楽になれるんじゃないの?」
これが、私にとって全てと言える答えだった。
ぐにゃぐにゃした道を、息を切らして必死に何かから逃れようと走ってきた。
真っ暗で何も見えないし、足元だって見えてやしないけど、
兎に角怖くて、怖くて耐えられなくて走ってた。
行き着いた場所は、行き止まりだった。
そこで、自分の心や精神が崩壊しないようにって、
それはそれは一生懸命になって考えた。
どうしよう、どうしようって。
足は、まだ走ってた。
足踏みでもしてなきゃ、おかしくなりそうだった。
もうダメ、こんな場所に居るなんて限界だ、でも先へは進めない。
引き返すなんて出来ないよ、何が追いかけてきてるかわからないもん。
そうやって、足踏みすることも出来なくなってきて、しゃがみこんで頭を抱え震えてた。
一瞬だった。
それまでの不安も恐怖も、何も感じなくなった。
その時、思いつく。
「消えればいい」
それが分かれば、もう何も怖くなかった。
物を考える余裕なんてハナから無いから、一つ思いつくと、それ以外に案なんて浮かばない。
あとは、どうやってそれを実行するかってことにしか、頭は働かなくなる。
その考えが、この世界に残された最後の手段だって、思い込んでしまう。
あの時、友人(特にいつも傍にいてくれた二人)がいなかったら、
彼女達があの世界の外から呼びかけ続けてくれていなかったら、
私は今頃どうなっていたか分からない。
いつだって、幸村は、周りのみんなに助けてもらってる。
簡単な、私の心理的体験描写だけど、自殺したいって思う人も同じような感覚なんじゃないのかなあ。
私には、根気強く壁を叩いて外の世界の存在を知らせてくれる友人が二人もいたから、救われたけど・・・。
ただ、そんな状況でも、一つだけ信じて止まないことがあった。
信じてるって言えば聞こえは良いけど、
正直なところ、そうありたいと願って止まないだけ。
「自分には、未来がある」ってこと。
命なんて呆気無いものだから、自ら命を絶たずとも、
その蝋燭の火が消えてしまうことはあるだろうけど、それでも、
自分には、きっと未来があるんだって、願ってた。
あってほしい。
死にたくない。
それだけ。
自分の事を愛してあげられるようになるまでは、終われない。
率直な言葉で言うと、
妥協や諦念、挫折や失意のまま、幕を下ろしたくないだけ。
だから今回は、どうしても譲れない。
それを選択したことで、どんな現実を見る破目になるのかなんて分からない。
・・・楽は出来ないだろうことは、難なく想像がつくんだけど(笑)。
でも、それを恐れて安穏な道を選択すれば、
もう一方を選びたかったという気持ちを、一生引き摺り続けることは目に見えてる。
それは正しく、火を見るよりも明らかだと思う。
後悔は、抱えるものじゃなくて役立てるもの。
どうせ忘れられないんだ。
だったら、容量の少ない頭に居座ってる家賃分くらいは働いてもらわないと。
役に立たないなら、役に立つようこっちから仕掛ける。
これまでの人生、散々同じような砂を舐めてきたのは、
ここで反復を招かない為だと思う。
いい加減砂の味覚えろよ、みたいな(笑)。
何べん舐めたって旨くはないんだからさ、って。
遅かれ早かれ、抱えたものが零になる運命なら、
この辺で、今まで溜め込んできたマイナスに助言をもらって、
今をプラスに導けるよう、踏ん張ってみるのもいい。
その後の跳躍が、ほんの少しでも。
飛距離が少しだって、進む事にかわりは無いんだし。
自分が「よかったな」って、どれだけ微塵であっても感じられるなら、
その瞬間の踏ん張りは、無駄じゃない。
そこで踏ん張って命が永らえたなら、それこそ儲けものだと思う。
命があるうちしか、出来ることは出来ないんだもん。
あー・・・。
人生ってほんと、難しいよね。
だからこそ、楽しみ甲斐があるんだろうけど。
※今回は字数が多すぎて、一度にup出来ませんでした(吃驚)。
三面に亘って記事を投稿してあります。読みにくいですが、お許し下さい。
さあ、覚悟は良いですか?
今日は、トコトン書いていますよ?
今日の幸村に、「遠慮」と言う二文字はありませんよ?
結構言葉遣いも荒いですよ・・・(それを踏まえて下さい)。
持久力がないと、最後まで読みきれませんよ?
軽く、八千字は超えてますよ?(400字詰め原稿用紙にして、軽く20枚以上)
さあさあ、幸村の思いの丈、読みきれますかー?(笑)
毎日これくらいは書きたいんですけどね・・・。
これだけ書こうとすると、二週間程かかるので(←実際にかかった/苦笑)、毎日は無理です。
折角の一周年ですし、まあ、たまには・・・ね。
甲斐田姐さんじゃないけど、
「してはいけないことをやっていこう!」
の精神で参りたいと思います(笑)。
御付き合い下さい。
では―――
おはようございます!こんにちは!こんばんは!
一周年、ありがとうございます、幸村です。
これも偏(ひとえ)に、ここに訪れて下さる方々がいる御陰。
誠にありがとうございまする。
だってだって!
こんな一個人の、何てことない筆を読んだり見たりしてくれる人がいると思うからこそ、
blogなんてもんを続けていられる訳だもの。
だーれも見に来てくれないなら、早々に畳んでいたでしょう。
でもね、
やっぱり自分の言葉って大切で、どうしても発信したいなあって思うの。
それが、何かを変える力だとか、力じゃないとかは関係ない。
ひょっとすると、誰も来てくれなかったら、「いつかHPにしてやる・・・」って、密かに書き溜めていたかも(笑)。
でも、それでもblogを畳んでいたことには代わりないからね。
ほんと、感謝です。
自分から発信したいって言う想いは、小さい頃からあるんだよね。
んー・・・「女」だから・・・なのかなあ?
違うかな・・・(苦笑)。
その辺はわかんないけど、どちらかって言うと「聞いてほしい」より、「言いたい」「伝えたい」って気持ちが強いのね。
でもきっと、「言いたい」って気持ちは、「聞いてほしい」とイコールなの。
表現が違うだけかもしれない。
でも!でもですよ!
表現が違うと言うことは、用いた言葉に籠められている 「伝えたい気持ちの重心」 の位置が違うってことなのね。
特に、幸村が文字に起こしたもの、こうして文章にしたものは。
「言いたい」って言葉と「聞いてほしい」という 意味 は同じだけど、
二つの言葉に籠められている 気持ちの重心 は、全く違うの。
つまり、その部分に遣われる言葉は、それでなくてはいけないというか・・・。
同義語だけど、届けたい想いのニュアンスが違うというか・・・。
・・・わかって?(気弱に命令形)
そんなこんなで、中学の頃から、自分の中にある言葉って大切にしてきた。
中学の頃からっていう表現は的確じゃないな・・・。
小さい頃から、言葉は大事にしてきたつもり。
まあ、小学生の頃はひっどい言葉遣いしてたこともあったけど・・・それもすぐに遣わなくなったなあ。
学童の頃から、ホント、「言葉」と「声」には凄く興味があった。
だから、軽々しい科白は聞くだけで腹が立ったなあ。
冷めてたからね、昔から。
今も昔も、綺麗な言葉を並べて、聞こえの良い科白で「そうだよね」「成程ね」って思わせようとするものは嫌い。
車内広告とかに、最近多いよね、そういうの。
一見すると、すごく良いこと、魅力的なことを言ってるようだけど、
ちょっと考えれば、くだらないなとしか思えない文句を並べた広告。
そんな言葉に対しては、小学生の頃から「アホくさ」とか思ったりしてた。
・・・今考えると、怖い・・・(笑)。
餓鬼の頃からスゲー冷めてた・・・。冷めすぎてた・・・。
でも、それはホント、物事の瞬間瞬間であって、常に人々をそんな目で見ている訳ではないからね。
皆、そんなもんじゃないのかなあ・・・。
冷めた感覚が一切ない人って・・・いるのかな・・・。
でも、いるだろうね、きっと。地上の人間の数って凄く多いから。
最近は特に、言葉に対してシビアになりすぎてる部分があるから、余計に目に付くのかもしれない。
言葉の響きや単語の意味が良いばっかりで、中身も誇りも無い広告、多いです。
まあ、あくまでこれは幸村の感覚で見た意見だけど。
これは冷めていた例になるのかな・・・。
小学生当時、色んな事(例えば恋愛だとか健康だとか)を象徴するお人形が流行ってたのね。
その中に、「友情を象徴するお人形」みたいなのがあった。
で、ある日、クラスの女子生徒と喧嘩したの。
そしたら、帰り道にその子が泣きながら、人形を目の前に突き出して、
「じゃあ、これは何のために持ってんの?!友情やろ?!友情を大事にするためやろ?!」
って感じで怒鳴ってきて・・・。
私はその子と人形を見ながら思ってた。
「・・・いや、これ、ただの人形やろ」 (※言ってません。)
友情は、自身の心の在りようであって、人形に頼ったりするものじゃないと思ってた。
それを持っている友人同士なら友情は壊れないなんて、考えたこともなかった。
だって、御菓子についてる付録だもの。
でも、そんなことを目の前のこの子に言っても、きっとまた何やら怒鳴ってくるに違いないと思った私は・・・
「・・・ハア・・・」 (※語尾の「・・・」に、そんな事はないという思いを籠めていた気がする。)
と、溜息だけを漏らした。
その前後の遣り取りは、何一つ覚えてない。
でも、彼女の言葉と、自分が思ったことだけは、一生忘れない語録に入ってる。
・・・冷めてるのかな・・・?
冷めてるって言うより、物凄く現実的にものごとを捉えているっていう方がいいかもしれない。
心は生きているから、何物かによって安定をもたらされるのもじゃない。
今の出来事の学年から数年後に知ったことだけど、そんな友情云々言ってた彼女は、その出来事より数年前から同学年の女子生徒に
「玖月ちゃんって、物凄いイヤな子やで。わたし、あの子嫌いなんよ」と、言いふらしていたらしい。
幸村を知らない子に、幸村とは友達にならない方が良いと言い回っていたらしい。
・・・まあ、私自身、当時から自分は嫌われっ子だと認識していましたが(苦笑)。
あまりにも真面目過ぎて、物事に対する猶予というものが無かった幸村。固過ぎましたね、ホント。
子供からみれば、四角四面で先生当たりの良い優等生って感じで、イヤな子だったんでしょう。
本当に、今振り返っても、自分は何故にあれ程クソ真面目だったのかと思いますもの。
同級生からすれば、相当な邪魔者だっただろうなあ・・・。
それもまあ、過去の話ですよ。
小学生の頃のことって、もう殆ど覚えてないから(笑)。
こんな事あったよなあ・・・程度かな。
友情がどうとか、激情の上で軽々しく口にする彼女を、その瞬間、冷めた目で見ていたお話でした。
だから、そんな感じで、持ち出す言葉言葉にすごく敏感になっている自分がいるの。
自分が遣う言葉に対しても、厳しいと思う。
遣った後で反省するのは毎日のことだし。
でも、小学生の頃は、詞を書いたり日記を書いたりすることはなかったからね。
「伝えよう」と言う想いや、「気持ちを言葉にしよう」と考え始めたのは、中学の頃からだから。
自分の中に蟠(わだかま)ってるものを意識的に外部へ解放してやろうと思い始めたのは、中学の頃。
周りは相手にしてくれなかったけどね。
なーんか、僕が思い悩んでることと、友達の持つ興味は世界そのものが違ってた。
皆は、芸能人とか歌手とか、そんな事で話が持ちきりだった。特に、恋愛に関して騒いでたなあ。
僕は、全然興味なくて・・・。まあ、織田裕二さんは好きだったけど・・・。でも、それだけだったしね。
中学で織田さんが好きだなんて、そこもズレてたし・・・。
親類も、「子供やのに何でそんなこと悩んでんの」って感じで、真面目に取り合ってはくれなかったなあ。
・・・うん、今になって思うよ。
中坊なのに何でそんなことで頭抱えてたんだろう・・・って。
やっと、日本中で取沙汰されるようになってきた。
地球の未来とか、人類の未来とか。
皆、意識するの遅すぎるよ。
そんな事分かりきってたじゃない。こうなるだろう事も、この先どうなるのかも。
専門家が悪いんじゃないよね、これは。
日本全体の意識が低すぎるんだと思う。
・・・その当時、社会を生き抜く人々は皆、見てみぬ振りでもしてたのかなあ。
それは未だに分からないけど。
そんな、人生高だか十二・三年の子供が声を上げても変わりっこ無い事を、本当に夜が眠れなくなるまで悩んでた。
人間という生き物を憎んだり、その人間である自分を憎んだり。
許せなかったんだ。何も出来ないでいる自分も、どんどん好き勝手していく人間も。
「きっと、人間の所為で地球上の生き物はみんな近い将来息絶えることになるんだろう」って思うと、自分も他の人間も、皆許せなかった。
今も、許せないでいる。
そんなことを悩んでノイローゼ一歩手前だった僕の話を聞いてくれて、その人なりの返事をくれた恩師がいたよ。
彼女には、本当に救われたなあ。
当時、僕の考えを本当に真正面から受けとめてくれる人は、彼女しか居なかった。
今更だけど、やっぱり、自分が真剣に悩んでることを御座なりにされるのは、苦しかった。
だから、余計に言葉が必要だって思ったんだろう。
「言葉にしなきゃ、伝わらない」って。
「ありったけを言葉にしなきゃ、意味が無い」って。
泣いたって笑ったって、命を投げ出したって、
そんな行為だけじゃ、その人自身が思う核心は、絶対に届かない。
「悲しいんだね」「嬉しいんだね」「辛かったんだね」って、そんな抽象的なものを知ってほしいんじゃない。
目に見える 「程度」 を測ってほしいんじゃない。
心が、体を掻(か)っ捌(さば)いて見せられるものならどんなに楽だろうって、いつも思う。
伝わらないイタミは、肉体的な痛みと比することは出来ないもの。
僕は、僕の中に息づく心を見てほしいだけなの。
でも、自分の心を一から十まで言葉に出来ることなんて、先ずない。
誰も彼もそうだと思う。そんなことは分かってるよ?
でも、前にも言ったじゃん。
「皆がそうだからって、僕には何の慰めにもならない」って。
誰がどうとか関係無いんだよ。
「自分の気持ちが言葉に出来ないことに苦しんでる」、これが僕の事実に代わりは無いんだから。
伝えたい想いに、限(きり)はない。
けれど、
言葉に出来ないんだ。
いつかの僕も、今の僕も。
文字で表現される「言葉」を、選べない。
それは、自分の語彙力の所為でもあるけれど、それ以上に、
僕自身が、言葉に出来ないでいる。
言葉を、選べない。
続きは下項に書いてあります。
文字数が多すぎで一枚にup出来なかった・・・。
僕が言葉を綴る時、
心に広がる、言葉だけが在る世界に入って、一つ一つ、丁寧に選ぶ。
言葉を選ぶことは、その世界で、旅をすること。
一歩一歩、空気を踏みしめて、一つ一つの単語を探しに行く。
地上も天上もないの。
あるのはただ、今の自分が認識出来る「空間」とよばれるものだけ。
丁度、空の中に立ってるような感覚かな。
そこに、無数の文字や単語が浮かんでる。雲の代わりみたいだけど、並び方は不規則で、これにも上下・左右・奥域は一切関係ない。
その中から、今自分が必要としている言葉を探す。
ずーっとずっーと長い時間歩き続けて、やっと見つけた目の前に浮かんでいる単語を掴まえる。
歩いている間は、心を感じているんだ。
「どんな言葉が、どの言葉が、心を表してくれるだろう」って。
両腕一杯に単語たちを集めたら、一度、言葉の世界の入り口へ戻る。
そこに、抱えてきた子達を降ろして、また探しに行く。
それを繰り返して、文章を作るだけの単語が集まったら、
大きな袋に、壊れないようそっと詰め込んで、言葉の世界から心そのもの神殿に帰ってくる。
言葉の世界の扉を押し開けると、心の中心に建つ建物の一室に通じてるの。
灯りは見た目にはない。でも、ぼんやりと壁や床は見える空間。
見た感じ、何処かの国で見られそうな神殿なのね・・・。多分、無意識にそういうイメージが出来てるんだと思う。
戻ってきたらそのまま、文と文章を作る部屋に向う。
部屋に入ると扉を閉めて、背負ってきた袋の紐を解く。
言葉には魂があるから、袋から出ると、ふわふわと部屋の中を漂ってる。
結構狭いお部屋かな。中に大人が三人入ると、一杯一杯になりそうなくらい。
ふわふわしてる単語達は表現するために選んできた子達だから、きちんと整列してくれる。
指で軽く触れると一つずつの文になる。
あとは、其々の文に声をかけて、順番に並んでもらえば文章になる。
出来上がった文は、部屋の窓から、僕がつけた順に飛び立っていく。
そうやって、心の世界に、自分の言葉が、綴られた文章となって満ちるとき、
僕は言葉を「文字」にし、「声」に出すことが出来る。
つまり、ペンを執って文字を書き、声を使って相手に伝えることが出来るんだ。
手間はかかるけど、そうすることが僕の表現の準備。
この流れを怠ると、何の想いも籠らない「文字」と「声」しか出てこない。
下項の記事に続きがあります。
想うことは沢山ある。
でも、
言葉の世界に赴いた僕が、長い旅の途中で心を表す言葉を見つけられなければ、
その想いは言葉で表現出来なくなる。
選び出せない想いは、ずっとずっと、
僕の心の部屋の中に閉じ込められたままになる。
想いは、眼にみえないからね。
音として聞くことも、触って感じることも出来ないから、
伝えるためには、何か表現するしかない。
もともと言葉を選ぶことにすごく時間が掛かる僕には、ちょっとしんどかったりもするんだけど。
それでも、言葉の世界で歩き疲れることはないんだよね。
どんなに長い時間歩き続けても、結局心にぴったりくる単語が見つからなかったとしても、
伝える為なら、辛くはない。
寧ろ、どきどきする。
「何処にあるんだろう」「どんな言葉が良いだろう」って。
言葉に色は無い。
だから、その世界にも色は無い。
でも、
僕が伝えたいと思うなら、届いてほしいと願うなら、
僕の心に反応して、選ばれた言葉たちは色をもつ。
言葉の魂が、僕の魂に応えてくれる。
輝くとも言えるし、発光するとも言える。
その色は、僕の心に拡がった瞬間、
「文字」とか「音」になって、色んな人達の目や耳に触れることとなる。
僕が見る色は、僕の色。
他の人達に届く時は、その人達の主観によって、違う色になる。
人によって、一つの言葉一つの文字が生み出す色、見える色は違う。
言葉は、自分の色を持たないから、その人が思った通りの色を見せる。
見る人が、思う色、感じる色にしか見えない。
だから、
こちらの色をより確実に届ける為に、一所懸命伝えようとしなくちゃ。
一番大切なのは、飾らないこと。
相手の心に、一直線に届くだろう言葉を選ぶこと。
何より、「伝えよう」という意志をもつこと。
それを、心と言葉に籠めること。
響きの良さやイメージの良さを重視して、言葉に籠める中身を蔑ろにすることは、絶対にしちゃいけない。
生半可な想いなら、言っても言わなくても同じだよ。
だから、自分の言葉には責任をもたなきゃいけない。
発する言葉は、心の声。
自分の飾らない想い。
そこには自分の魂に呼応した言霊が宿っているから、蔑ろに出来る文句は一つも無い筈。
だから、いつも思ってる。
こちらが発する言葉には、真剣に向き合ってほしい、って。
押し付ける気はサラサラないよ?
僕が言う言葉は僕の想いであって、他の誰のものでも無いもの。
受け取った人の主観によって、僕から出た言葉は無限に変化してしまう。
同意も反意も、抱くのはその人の自由だから。
ただ忘れないでほしいのは、
「僕は、生半可な気持ちで文字を綴ってるんじゃない」
ってこと。
この一年間、一度だって、blogに載せた言葉を蔑ろにしたつもりはない。
馬鹿な話なら馬鹿話なりに、真剣な話なら真剣な話として、
自分が思うことをあなたに伝えようと、必死になって言葉を選んだ。
漢字にする方が良いのか、平仮名にする方が良いのか、ってことも含めて。
自分の文章を人に見せることは、自分の誇りを懸けてると言っていい。
文字にする以上、一言一句、無駄にしたくはない。
日が経って、想いが変わったとか、考え方が変わるってことはある。
だから、前に言ってたことと違うじゃないかって部分はあると思う。
でも、例え時間が過ぎて、自分の意見が変化したとしても、
意見が変わったからといって、それまで書き綴った言葉は意味を持たなくなったのかというと、そうじゃない。
書いていたその瞬間は、その言葉が幸村にとって、何よりの真実だから。
大見得切って言ってもいい。
私は、自分の言葉を大事にしてる。
だからこそ、自分の言葉は人を傷つけていないだろうかって、いつも怖い。
色んな可能性を考慮して言葉を選んだり、注釈をつけるけど、
私には想像出来ないことが、沢山あると思う。
つまり、自分が察し得ないところで、誰かが傷ついているかもしれないということ。
でも、これだけの数の人間を相手に、誰一人傷つけずにいるなんて、不可能だと思う。
自分に出来る限りの努力はするけど、傷つく人は傷つくだろうから、それはやっぱり避けられない。
それと同時に、これだけ必死になったって、届かないものは届かない。
いくら言ったって、真剣に言葉と向き合ってくれない人は向き合ってくれない。
伝えたいことが伝えきれないこともある。
それは、仕方ないと思う。
この世の中、願えば必ずや全てがうまくいくなんてことは無いと思ってる。
うまくいかないことだってあるよ。
出来ないことも、沢山ある。
願えば何でも成就する世界なら、誰も苦しんでない筈だもの。
飢えで亡くなる人だっていない筈だ。
経済的に苦しむ人達だっていない筈だし、
想いが届かなくて胸を痛めることだって無い筈だ。
でも、だからこそ、人は生きていけるんだと思う。
あなたに分かってほしくて、時間をかけて言葉を選ぶ僕がいるように、
もっとこうしたいって思うから、進んでいけるし、続けていける。
目を閉じて全てが分かるなんて、それほど味気ないものは無いと思う。
叶わないから、手に入れよう、実現させてやろうって、一所懸命にも一生懸命にもなれる。
分からないから、分かり合いたいと思える。
その過程で、あなたや彼女、彼を傷つけているかもしれないけど、
それはきっと、お互い様なんだと思う。
自分ばかりが嫌な思いをしているわけじゃないと思うよ。
自分だけが悩んでるわけじゃないし。
人間は「言語」と呼ばれる言葉を持っているから、基本的には「会話」をすることでコミュニケーションを図る。
方法は、口だけじゃなくて、手とか仕草とか、色々あるけど、
多分、一番多いのは声によるコミュニケーション。
あとは、文字。
・・・それだけしかないじゃない。
自分の気持ちを他人に伝える方法なんて。
息もしない、顔も動かさない、声も出さない、手紙も書かない、
自分の筋一本動かさず、鼓動も聞かせず、
なーんにもせずに、
他人に想いを伝えることなんて出来ないじゃん。
人間は(人間に限らず生き物は)、何かしら行動によってしか、伝えられない。
イルカなら超音波とかあるけど・・・そういうのも使わないで気持ちを表現する事は不可能でしょ。
伝えようとする意志がないと、伝わらない。
心がないと、響かない。
文字や言葉を遣わないと、自分を表現出来ないということは、
文字や言葉しか、自分を表現出来るものはないということ。
それを蔑ろにすることは、自分を蔑ろにするも同然だと思う。
軽い気持ちで扱える言葉なんて一つとして存在しない。
あなたが口にするその言葉は、一字一句、「意味」を持ってるんだもの。
そこには、少なからず、力が宿ってると信じてる。
自分の発する言葉は、大切にしてほしい。
同時に、
人が発する言葉を、同じくらい、大切にしてほしい。
これは、最近すごく強く思う。
意味を考えずに、「遣いたいから遣う」「こういう時にはこれを遣う」っていう暴言が目に余るもの。
その言葉がどういう意味か、どういうことを指しているか、考えたことがあるのか?って、
胸ぐら掴んで問い質してやりたくなる時があるよ。
・・・殺し合いのゲームの影響って、本当に怖い。
あと、その場凌ぎの平謝りや挨拶も、悲しくなる。
「そんな、思ってもないこと口にするなら、頭下げなきゃいいのに」って。
まあ、世の中、体(てい)ってものがあるからね・・・。
きっと皆、柵(しがらみ)の中で生きているから、仕方の無いことなんだと思う。
でも、例えそうであっても、
やっぱり、言葉は、大切にしてほしい。
一年目を迎えた幸村blog、「言葉と心は飾れない」。
節目ということもあって、長々と書いてしまいましたが・・・。
そうね、これからまた、自分なりに進めていこうかなって思ってます。
幸村は、幸村の言葉で、自分の気持ちを綴っていきます。
そんなblogですが、これからも、宜しく御願い致します。
常々思っているんですよ、幸村です。
世の中、御金が無いとな・・・
と。
やっぱり、詰る所は御金なんだなあ・・・
と。
これ、物凄く物欲主義者のように思われるかもしれませんが、
幸村は物への執着はありません。
「そう言う人間に限って云々」と言う人もいるだろうけど、本当に、執着心って無い方だと思うの。
冒頭の言葉は、
「この、今の世の中で生きてゆく為には御金が無いと話しにならない」
と言いたいのね。
って・・・もう時間が・・・(焦)。
これについては、またゆっくり話したいなーなんて思います。
・・・いつか・・・いつか(笑)。
今日は、少し言葉遣いがキツイかもしれません。
ごめんください。
旧友と電車でばったり再会・・・を、立て続けに二回しました、幸村です。
しかも同じ人物と(笑)、二回とも降りる間際に(笑)。
何年振りだろう?
中学二年以来だよ・・・。
お互い、別嬪さんになりましたねえ!(え?聞こえない?おかしいなぁ。)
彼女に逢うまで、乗り換える前の電車内での出来事に腹を立てていて相当機嫌が悪かったのですが、
一瞬で吹き飛びました。
幸村は、腹を立てる事なんて殆どありません。
気が長い・・・のか、疎いのかは論じますまい(笑)。
のほほんとしているんですって。二親ともそうですもん(軽く暴露)。
だからここは、
幸村の堪忍袋の緒が、相当に弾力性のあるものなのだとしておこう。うん。
だからね、頭にくる事なんて本当に無いのよ。
そんな幸村が、表情に出すほど不機嫌になったので・・・。
んー、まあ、電車に乗っていればよくあることなんですけどね。
構やしませんよ、普段は。
「ああ、疲れてらっしゃるのねー」
と思うくらいですよ。
でもね、明らかにワザとだったのよ、昨日のあれは!!
しかも礼儀知らずで・・・。
やめよう・・・。
思い出すだけ消費する我のCaが勿体無い。
次に同じことが起きた場合の訓練としよう。
そうとも!
愚痴ったって何の解決にもならんじゃないか!
自分の運気を下げるだけだしね・・・。
幸村は大概、こうして「Caの浪費だわ」とか言って、
イタチゴッコのイライラにサヨナラを告げます。
嫌な事に対していつまでも拘ったって、何も生み出せないから。
要するに、
「解決しないことで悩むのは不毛だ」
ということ。
これは、私が常時持ち歩いている言葉のひとつ。
作家・石田衣良さんの言葉です。
当たり前のことなんですけどね。言われて初めてハッとしたんですよ。
「いつかは死ぬ」って事ばかり考えて、小さい頃から苦しんできたけど、
それって本当に不毛だってこと。
今だって、「自分が世から居なくなること」が頭に浮かんで、
不意に言いえぬ恐怖に襲われる時もあるんだけど・・・。
それでもやっぱりさ、そうやってハッキリと言い切ってくれた事で、
幾分か楽になれた部分はある。
「解決しないことで悩むのは不毛だ」って、
殊取り立てて仰った訳ではないんです。
会話の中で、サラッと出てきた言葉なの。
だから、同じ番組を見ていた人でも「そんな事言ってたっけ?」って
思われる方は沢山いらっしゃると思います。
それはつまり、
彼が殊更意識していない部分で、幸村の最大の恐怖は処理出来る、
ということ。
世の中、考え方(主観)で楽園にも地獄にもなるんですよ。
人が生きる時、世界に善と悪、陰と陽があるのは、人に心があるからだもん。
随分前から理解はしていたけど、その真ん中まで至ってないんだろうなあ。
まだまだってことでしょうね。
他にもね、沢山沢山、私の心を劈(つんざ)いた言葉があったの。
それも全部、意識していないもの。
「作家さんって、それくらい達観していないと書けないのかなあ・・・」って、
すごいなあって思ったよ。
自分の運気が乱れがちな時って、嫌な事と嬉しい事が半々に起こります。
沢山嫌な事が重なって、その後にまとめて嬉しい事がやってきたり、
交代交代でやってきたり、訪れ方は様々だけれど。
でも、さっきも言ったとおり、
世の中に起こる凡ての事象は、自分の心が見た感覚でしかないんです。
凡ては主観なのね。
他人を見ているときは客観だけどさ、「自分の感じ方」の話をしてるのよ、今は。
世界を渡る時、生まれてから天命を全うするまでのホンのひと時、
主観からは逃れられないということ。
つまり、
人生、嬉しいことが多いと感じるか、
嫌なことばかりだと感じるかは、
全てその人次第な訳。
いるじゃない、いつ逢ったって愚痴ばっかりの人。
話を聞いていると、大抵の原因はマイナス志向だから。
「自分がどうありたい」とか口を動かす暇があるなら、
その一秒を惜しんでプラスへの転換法を考えたらいいと思う。
人生、泣いても笑っても、「その人の一生」以外の何物でもないんだから。
どうせ死ぬなら、幸せの数が一つでも多い方がいいじゃない?
幸村家のすぐそばにある一対のソメイヨシノも、そろそろ伸びをし始めました。
この二、三日は随分温かかったからねー。
急に蕾が膨らんだ!何輪かはもう咲いてましたよ。
幸村は、こうして春を迎えることが出来るって、すごく幸せだと思うの。
何だかんだ厄介事はあるけど、それは生きている限りついてまわるものだから、気に病むだけ損だなーって思う。
悩む事が沢山あったって、アタシたちが今を生きている事に変わりはなく、今この季節を感じることは出来る。
多分、それはすごく貴重なものなんだと、不思議と小さい頃から思ってた。
死ぬことが常に頭にあるから、余計に今が愛おしいんだと思う。
いや、やっと、愛おしいと思えるようになってきた。
今までは、時間が過ぎることが恐くて恐くて仕方なかった。
一秒一秒、僕は死に近づいているんだな、としか思えなかった。
最近は、
それならもっと、今を愛してあげよう
って思える。
変化は、自分が行動しない限り、訪れない。
春。
大好きな桜と温かな陽射しを浴びる度、毎年毎年、そんなことを思う。
インターネットとの別れが日に日に近づいている幸村です。
やーん(泣)。
あと数日で御別れですヨ・・・。
一日も早く復帰出来る事を祈ります。
例によって、インターネットから離れる間は携帯電話投稿ですな・・・。
これ、携帯電話の会社と機種を替えれば投稿可能文字数も増すのかしら。
全角250文字しか打てないなんて少なすぎます・・・。
だから、と言う訳ではありませんが、今月中に携帯電話会社を変更予定です。
今の機種はもう三年近く使っているけど全然飽きてません。
ずっとこの機種を使いたいくらい気に入っているんだけれど、通話プランやらパケットやらを考えるに他社の方が御得でして・・・。
それに、スキャナを買うまでは写メでイラストをupするから、もっと画像の良いカメラ携帯が欲しい・・・。
会社を変更するからナンバーポータブルかと思われるでしょうが、完全に作り変えようと思います(笑)。
番号もアドレスも変えちゃうつもり。
思うところもあって携帯電話に登録している人たちの整理をしたいし。
変更を報せるべき人と否なる人。登録しておくべき人と削除しても差し支えのない人。
一旦白紙に戻してみようと思って。
幸村は、「捨てるものは捨てる」ということが出来なかったので、不必要なものをたらたらたらたら引き摺って生きてきました。
「思い切り」が出来無かったのね。
だから、袋が幾らあっても足りないの。思い出とか記憶とか、そういうのを詰める入れ物。
良いも悪いも一緒に入れて、どれもこれも担いで来たんだけど、ふと気づいた。
このまま同じ事してると、何も手元に残せない。
言ってることが矛盾してるって思われるかもしれないね。
でも、本当に残らないんだ。
去年の夏、自室で突然泣き崩れたの。
寂しいとか悲しいとかじゃない。
ただ、空しかったんだと思う。
自分の部屋の真ん中に座って、そこにあるモノを何となく見回してた時のこと。
何だ、このガラクタの山は。
そう思った。
服も靴も、鞄も本も、部屋中にあるもの全てと言ってもいい。
本当に大切なものも、本当に必要なものも、並べてみればすぐ分かる。
数えるほどもないこと。
見つめなおすと、自分の周りにある溢れているモノはどれもどうだっていい存在ばかりで、幾らの価値もない。
「・・・僕には、何が残るんだろう。
何の為に、こんなの集めてるのかな。
・・・僕は、何がしたいんだろう」
そう思って呆然としてると、涙が止まらなくなった。
将来やりたいことじゃなくて、こんなに色んなモノを自分の周りに溜め込んで何がしたいんだろうって。
残るモノなんて、幾つもないのにね。
モノが溢れてる事で空しくなることは、いつだって、何度だってある。
家を出て御買い物に行く度に、それは感じてる。
パン屋さんでもレコード店でも、量販店でも食品売り場でも、
靴屋さんでもファーストフード店でも、花屋さんでもドラッグストアでも。
街を歩いていても、
何処に居ても。
溢れかえるモノに、吐き気がすることなんかしょっちゅうある。
同時に、その社会で生かされている自分に嫌気が差す。
綺麗にライトアップされたショウウィンドウの中の服を眼にした時、雰囲気の良い御店に入った時は殊更、
自分の恵まれた現状を思いながら、心の中に影が落ちる。
これだけモノがあれば、当然処分されるものだってある。
地球上には、必要なものさえ手に入れられなくて地に伏していく人が幾らでもいるのに。
この、無駄を無駄と思うことさえ疎くなった世の中で、自分も他人と同じように生きているんだな・・・って。
世界はきっと、不平等の下にある。
いつだってそんなだけど、
でも、あの日は空虚の規模が段違いだったんだよね。
だから、決めたんだ。
一度、全てを袋から出してしまおうって。
部屋にあるモノなら、片っ端から処分して、要るモノだけを残す。
そうして、次からは余計なものを手にしないようにする。
自分の意識出来る範囲では、無駄を無くそうって。
携帯電話も同じこと。
会社を変えることになれば機種を替えないといけない。
今のままで使えるなら越したことはないけど、そうはいかないみたいだし。
新しくなったら、要らないデータは一切処分する。
もっともっと、意識して生きなきゃいけないんだと思う。
この国で生きているということは、多かれ少なかれ、無駄遣いによる消費生活で生かされているということを。
自分達は幸せだからそれで良いなんて、間違っても思っちゃいけないと思う。
やっとパソコン・・・幸村です。
「ルパン三世」のテレビシリーズを観ています。
そしたらグラッと来ましたよ・・・地震が・・・。
幸村には自分でも「驚くべき力だな・・・」と思う感覚が幾つかあります。
中でも味覚と嗅覚、GBセンサーと地震探知機(探知機?)は凄いです。
※GB:黒くてすばしこい、偶に飛ぶアレ※
味覚と嗅覚が鋭いのは幼い頃から。
地震は、予知が出来るわけではありません。
揺れ始める瞬間から「来たっ」と感じるという、揺れに非常に敏感なだけです。
でもGBの場合は、ちょいと異質。
奴が自分と同じ空間に居ると、たちどころに居場所を突き止められます。
そう、無灯で何も見えない状態でも。←自分でも、これは凄いと思う。
全身の毛穴が目覚めるんだよね・・・奴が居ると・・・。
そんな訳で(?)GBを仕留め損なった例はありません。(自慢する事でもないけれど)
地震に敏感な幸村。
さっきの二時過ぎの地震でもかなり怖かったです。
この辺りは福井嶺北程も揺れなかったけれども。
地震速報に出ない程度でも、誰も気づいていなくても、「明らかに今揺れた・・・」と、一人で恐怖することが多々あります。・・・妖の所為とかじゃなくて地震だと思う・・・。
だから、震度一でも相当怖い。
でも、毎回初期微動継続時間を計りつつ、持って出るべきものを冷静に考え小脇に抱えている幸村。
今までのところ、結構落ち着いてます。
だけど、大震災となった過去のようなものが来た時に同様の対応が出来るかは分からない。
自分の足では立てないそうですしね。
近い内に起こると言われている東南海地震では恐らく、周囲も無事では済みますまい。自分の家だって残るかどうか・・・。
でも、
ワタシは死にません。家族も死なせません。
実際どうなるか分からないとかじゃなくて、そう強く想っていることが大事だと思う。
地震が起きる度、逃げる支度をしながら思っていることはただ一つ。
「僕は絶対に死なない。死んで堪るか」
これだけ。
先の事は分からない。だから、
ワタシに信じる事しか出来ないのなら、信じておこうと思うの。
過去を精算するために。
過去を過去として精算するために。
詳細は、インターネット復帰してからということで。
んー・・・何と言うか、きちんとけじめをつけたくてね。
いつまで何処まで引き摺ったって、嫌な思い出は嫌な思い出な訳ですよ。
何年経ったからって、懐かしいと思えるものじゃない。
でも、そんなものに悩まされてる自分が居る事は、紛れも無い事実だった。
ずっとずっと抱えてきて、
ずっとずぅーっと、癪だった。
今日は結論が出たと言うか。
・・・結論って言ったって、まだまだ途中かもしれないけど。
悩んでも拘っても、自分に何ももたらさない。
嫌な思いになって、疲れるだけなんだ。
悩む価値も無い。
って。
二時間以上、嫌な思い出の宝庫をぶらぶらして考えたの。
そしたらさ、色々と思うことがあって。
綺麗サッパリとはいかないけど、ある程度ケリがついたと言うか。
ま、その辺はまた、後日と言うことで。
二日間の携帯投稿を経て復活、幸村です。
今夜は、世間様ではクリスマス・イヴとの事ですが・・・。
ワタクシはクリスチャンではないので別に祝う必要もなく(笑)。
どんちゃんするのが好きじゃないから、イベントとか言われる日は静かにのんびり過ごすのが幸村流なんです。
ただ、この時期のこの雰囲気って、素敵だと思います。
皆、何だか楽しそうだもんね。
御友達とパーティーをして馬鹿騒ぎしたり、御孫さんがいらしておばあちゃんとおじいちゃんに笑顔が増えたり・・・。
買い物に来ている人たちも、ウキウキしてる。
そんな中で、自分も結構雰囲気に心躍らされていたりします。
で、こういう時って、御酒が呑みたくなるんだよね。
それはそれは沢山・・・(笑)。←この前、控えるっつったばっかだ・・・!!
言って置きますが、自棄酒じゃないですよ。冗談抜きで(笑)。
気分がいい時期は、普段呑まないくせに急に呑みたくなるみたいです。
うん、控えるっていったよね。
だから今回は、ずっと気になっていたビール一缶で我慢我慢(笑)。
サントリーの「The PREMIUM MALT'S 」!!← 350 ml で230円・・・。
こういう時じゃないとこんな高いビールは買えない(笑)。
気分がいいので小さいケーキも買いましょう。
苺の生クリーム。クリスマスサイズのショートケーキ。
さっ、食べましょうv
←ケーキはもう食べちゃった。今はビール。
・・・ん?何か?
甘いものは甘党で、御酒は辛党じゃねえかって?
ちっちっちっ (古い・・・)。
幸村をその辺の人と同一視しちゃあいけねえな、いけねえよ。
幸村玖月、甘党兼辛党代表(笑)。
いやね、これは幸村家の家系なんですって。
父親が、大福を片手に日本酒で一杯する輩です。
何でかなー・・・いつからだろう・・・(笑)。
シュークリームを食みながらワインとか、ホールケーキ食べながらウォッカとか。
御酒を公に呑めるようになった時からそんな事してたからね。
←公に出来ない頃は、つまみらしいつまみを食べながら呑んでいた。
砂ズリとかスルメとか。今も大好き。
ぷはーぁっ!!
ビールって、苦手なんだよね(あれ?)
幾ら呑んでも、ビールの苦味には慣れなくてね;
でも、このビールはずっと呑んで見たかったの。んー・・・ビビッときたから・・・?
実際、これなら呑める。
苦いことは苦いんだけど、気持ち悪くならない苦さ・・・って言うのかしら。
でも、僕はやっぱり、ビールなら第三のビールで充分かな(笑)。
あれは苦くないもんね。
他の御酒には拘りがあるんだけどなー。
好みの問題だから、これはこれでいいか。
・・・なんて思いながらも、またビールを呷る幸村がいました(笑)。
零時頃「夜も更けたからもう寝よう」と友人にメールを送ったくせに、色々やっててまだ起きている幸村です。
もうすぐ寝ますよ・・・。
今日はSさんに逢いにいかなきゃならないし、友人との御昼の約束もあるし。
でも、ここまで起きてたなら今日のblogをもう書いておこうと思います。
すっかり虜となった「ルパン三世」シリーズ。
五ェ門ちゃんが一番好きです。
TVシリーズを制覇しようと少し前から幾本か借りては観ているのですが、
五ェ門ちゃんは、あれなのか。
ボケキャラ扱いなのか。
・・・そうなのか。←一人で納得。
いや、各々の御話によって違うんだけどもさ。
今回借りてきた中の一つ「ハリマオの財宝を追え!!」は、誰が観ても彼がボケ担当に見える・・・筈。
「悟りの修行にも、先立つものが必要」ってことで、次元にバイトとして雇ってもらってるのが堪りません。
時間給は980円だとか。
有給は無いそうです。←当たり前。
手柄をあげた五ェ門に「時間給を上げてやるぜ」とルパンが言ったあと、すかさず
「有給もつけて?」
と言ったのには受けました。
この御話の五ェ門には笑わされっ放し突っ込みっ放しですが、
何処よりも一番力を入れて突っ込んでしまった。
「有給あったらもうバイトの域ちゃうんちゃう?!」
話が進んで、
税込み1030円で五ェ門を雇ってやって欲しいと、不二子ちゃんが雇い主に言うと、
咳払いをして不満を表現(笑)。
何て可愛らしいんだろう・・・。
どんなにクールで「無念無想」とか言ってても、その実とっても御茶目さんだったりするんだなあ・・・と、
これまで観てきたシリーズから思うのでした。
幾つか観た中で、一番好きなのは「お宝返却大作戦!!」です。
五ェ門ちゃんもしっかり活躍するってのもあるかもしれないんだけど、
この御話は、皆に少しずつ焦点を当てて活躍の場が設けられています。
本当に画の構図が素敵なんだって!!
次元のマグナムの捌き方、ルパンの運転は勿論、ふとしたカットが何とも言えない。
本当にこの構図の取り方は感服します。
あと、脚本も!!
五ェ門が詠んだ字余りの俳句は、今でも反芻してしまう(笑)。
あれは良かった。御茶目さん卍解。
えっと、確か・・・
「刀背打(みねう)ちじゃ 大切にしようよ 世界の遺産 ・・・字余り」
だったかな。
斬鉄剣を鞘に収めつつ、微笑み混じりに詠んでました。
この作品は画も配色も背景も素敵だったし、カメラワーク(表現が適当では無い気がしますが)も秀逸だし(あくまで幸村の好みの話)、一つの場面に間延びが無く、観ていて飽きません。
そして、「いい作品にはいい音楽がある」という言葉の通り、サウンドトラックが他の作品とはちょいと違うんです。
幸村の大好きな音楽観故に、余計にそう思うのかもしれません。
この御話をレンタルした翌日、再度御店に足を向け、サウンドトラックを借りてきました。
記憶に残る作品は、映画・劇画を問わず必ず素敵な音楽が花を添えています。
どんなに脚本や役者が良くても、B.G.にある音楽に魅力がなければ、本来の良さを出し切れぬままとなってしまいます。
連係作業であるものは、どこかが未完成ではいけない。
どれも不完全であってはならない。
完璧を求めることとは異なりますが、さらに上を目指してこそ、いいものは生まれるのだろうな、と思います。
しかし「完成」も「完全」も「完璧」も、迎えたと思ったらそこで御終いです。
「これで良い」と納得してしまうと、それ以上成長出来ない。
裏を返せば、満たされないうちは、成長の可能性を秘めているってことです。
満足したい。でも、もっと上を目指したいから満足は出来ない。
中々、人間の求めるものというのは難しいものが多いですねぇ。
・・・ん?
話が変わっているぞ・・・。
何だか纏まらない話で申し訳ないが;
「ルパン三世」については、御洒落な部分が沢山あって一言で語れませんので、
気になった方は是非御自身で御確かめを。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
御無沙汰してます、幸村です。
生きてます。(取敢えず報告)
先日、二週間に一度の御医者様にも行きました。
新たな乗り継ぎ方法を知り、通院も幾分楽になったので嬉しいです。
人の数が劇的に違うので、疲れ方が天と地です。
御医者様いわく、経過は良好・・・なようです。
この前までは何とも言えなさそうだったんだけど(苦笑)。
うーん、しかし・・・一体いつまで続くんだろう・・・。
初診ではっきり言われた分、心構えは出来てるつもりだったけど、こうなってくるとやっぱり不安・・・。
良好とは言え、今のところ目処が無いので;
ここのところ、「ホントに治るのかな・・・」と、昼夜問わず弱気になりがちです。
まっ、悩んでも仕方の無い事なのですがねー。なるようにしかなら無いんだもの。
この世界に「在る」とされているものは、何時どうなるか分からないんだもんね。
明日が来る保障だって何処にも無い。「絶対にくる」なんて、誰にも証明出来ない。
何もかもが定まらない世界である以上、何を用いようと「先の証明」は不可能です。
宇宙の気紛れで、あと数分後にその空間自体が消滅するかもしれない。そんな可能性だって否定は出来ない。
「絶対」は無い。
特に「先をみる」という行為は、人間は勿論、存在し得るものたちの手に負えるものではありません。
だから、自分も含めて未来を気に掛けることは掛けるだけ骨折り損のくたびれ儲けでしょうよ。
・・・こんなこと言ったって、飲み込んじゃいねーからどーせまた悩むのがオチなんだけどさ。
少し話が逸れますが・・・。
「ヒトなら出来る」とか「ヒトは偉い」「ヒトは他の動物とは違う(←排他的なニュアンスで用いられている)」なんて言いたそうなものをよく眼、耳にしますが、それはただの驕りです。
人間は大して他の生き物と相違はないんだもの。
思考能力が抜きん出ていることは確かだけど、それが「偉い」ことは無関係です。直立二足歩行が出来ること、ものが使えることが「偉い」とはいえない。
たまたまヒトの進化の過程でそうなっただけで、四本足で歩いたって二本足で歩いたって、歩いていることに変わりは無く、そこに存在価値・種族の価値等の基準を見ようとすることは根本的に誤っています。
ものを自由に扱えることは、確かにすごいことだと思う。けれども、それが他の動物達を卑下する言いがかりには出来ない。
これだって進化したらそうなっただけなんだもんね。
生物の歴史、宇宙の脈絡が違えられていれば、ヒトではなく、もっと違う生き物にそういう能力が備わっていたかもしれない。
そもそも地位だとか言って動物に優劣をつけること自体、おかしい。この時点でヒトは他の動物を自分の足に敷いていることになります。
何も上下関係なんて無いのに、ヒトだって同一線上にいるのに、どうして他の動物の評価が出来るの?
評価を下すということは、相手の価値をはかるということです。
はかるものと、はかられるものとの間には、位置関係が存在する筈です。
ヒトは、そんなこと出来る存在ではありませんよ?
この話、奥が深い分こんなところにぺラッと書けるものではありませんので今夜は適当なところで留め置きますが・・・。
つくづく悲観的になってしまう自分が憎いですね・・・。
上に関係していることでもありますが、そういった
「思い違いもいいとこだな、おい」というヒトが増えてきていると思います。
「人間様」中心の世界だ という世界の見方が然も当然となっている状況が、眼に余ります。
自分の周りに限らず、メディアから垂れ流されているものにも見られることですし。
「そんな事、考えたこともない。(人間のものだなんて思ったことなんてないよ)」と、顔の前で片手をひらひらさせるヒトほど、危なかったり。
そんなこんな、不安要素たっぷりの世界。
それはそれで割り切って、楽しまないと勿体無い。
泣いても笑っても、人生は人生であり、人の一生には変わりないんですから。
確実に、終結に向っているのは誰しも同じだしね。
笑顔が一度でも多い人生に出来るといいな。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
ハロウィンの後継はクリスマスですか・・・そうですか、幸村です。
サイトの背景を秋仕様にしたのはいいけれど、今頃すると何だか時期遅れの気もします・・・。やっぱり流れに乗り遅れているのかしら;
しかし、まだ十一月ですからね!幸村的暦では秋です。
乗り遅れているように思ってしまう原因は、巷は既に冬モードだから。秋なんて遠い彼方に過ぎてしまったといわんばかりに冬!冬!冬!です。
すっかり街中がクリスマスだもんね。それにしても・・・ハロウィンの翌日にクリスマスが来たのはびっくりしたね。
まだまだ先だよ~?そんなに早くからクリスマスしてると、本当にクリスマスが来た頃には気分も盛りを過ぎてんじゃないの~?
ハロウィンが九月の頭くらいから囃されていた今年、十月の中頃にふと思いました。
「あ、そっか。まだハロウィンは来てないんだっけ」
毎日毎日、街中でみる「HAPPY Halloween」の文字。黒と橙を基調にしたポスターが至る所に飾られて、お化け南瓜や魔女さんたちのイラストも多数。
いい加減見飽きた頃に、まだまだ十月も末日には遠いことを思い出しました。
末日になるとハロウィンなんてもう時代遅れのような感覚で、次の準備に主役を盗られているような印象を受けました。盛り上がりが大事で、当日が云々じゃないんだろうな・・・。雰囲気なのかな・・・何もかも。
それにしても、「Happy Halloween」ってどうなんだ・・・。
皆さん何かなさるんでしょうかね・・・;
それにしても、日本人ってイベントが好きですね。
御正月に始まったと思ったら、一月も上旬から節分を宣伝。
二月三日が過ぎると御雛祭り。
三月三日を終えると次は四月に向けてもう御花見のコーナーとかが出てくる。
桜が終わると子供の日、端午の節句。
五月の五日を過ぎると、これといったイベント事もありませんから、ぼちぼち「夏だ~!」とか「SUMMER!!」とかが目に入るようになりますね。
で、言ってる間に御中元コーナーが出てくる。そうして次第に、海の日やら御盆に向けて、夏!夏!夏!って耳が痛いほど夏を謳っていたりします。
で、次はそろそろ九月。
運動会。
運動会は十月の頭前後じゃないのかな・・・とか思いますが、八月もひきずりが去る頃から声高に言われるようになりますね。
運動会が済むと・・・御月見?
御団子やら芒やら、兎さんとかも沢山眼にします。でも、御月見って最近は言う程イベント化されていないようで、九月に入って運動会と並んでハロウィンが目立ってきました。
数年前まではこんなに大袈裟に持て囃されていなかった気がしますが・・・何があったのだろう・・・。
ああ、そうだ。十月も下旬になると御歳暮のコーナーが出てきましたよね。
今年は、ハロウィンと御歳暮が平行していた時期もありました。御歳暮って、年の暮れだよな・・・?とか頭がごっちゃになりそうだったゼ(困)。
で、十月末日の夜が過ぎると街中一斉にクリスマス。
クリスマスが終わらない内から、新年の御祝いです。「賀正」とか新年の干支とかが眼につく。御正月にケーキ!とかチキンとか、まあ色々宣伝はあります。
クリスマス当日。すっかり廃れたクリスマス(呆)。
この頃は、御節料理とか福袋とかに注目がいってるもんねえ;
これら一年間の一連の流れは、販売商社による戦略なのでしょうが・・・それにすっかりのせられて年がら年中イベントイベントって、新しいもの・キレイなものを求める国民性を、一度客観視する必要はないのかと思うのです。
何も、イベントを楽しむなとは言いません。ワタシだってクリスマスが近くなるとウキウキします。何をするでもないけれど、夜に見る家々の明かりやイルミネイションが冬の寒さに映えて素敵だなって思うし。
ただ、そういうイベントの他には何もないんですか?って思うの。
クリスマスって言ったら、右向け右をしたように皆クリスマスに向う。
磁石を近づけられた砂鉄みたいに、みーーーーーんなゴソゴソっとクシャクシャっと集まるこの習性。何とかならないのかな・・・。
それに・・・クリスマスもハロウィンも、イベント化されてるけどその真意は無視されていたりするし・・・ね。
子供の日でも御中元でも御歳暮でも、どれも売り手の策略に嵌められているばかりで、なーんかホントに大切にしていかなきゃいけないものは置いてけぼりになってる気がするんです。
ワタシが見ている世界なんて、日本とはいえ極極限られた部分でしかない。だから、全く違う一年の流れを汲む地域もあることでしょう。
この眼に映るものだけが真実とは言えない。
でも、本当に見つめないとけないものや大事にしなければならないものが蔑ろにされる世の中になっていることは、確かだと思います。
人間の価値自体が下がっているとも思える昨今、自分も含めて、一度世間の動向から逸脱してみるのもいいかもしれません。
人混みの中を周りに合わせて歩いていると何も感じないけど、流れから一歩外れて観察してみると、思うことは山程ある。変な感覚だよね、人混みと人の流れを他所から見てる時って。あの感じ、凄く好き(笑)。
それと一緒なのかなーとか思ったりする。
要は、如何に周りに左右されずにいられるか。
自分を、流れに揉まれない所へ連れて行くことが出来るか。
その為に、自分が気をつけないといけないことって沢山ある。一気には出来ないから、一つづつ一つづつなんだけど。
少なくとも、そう意識してるだけで、少しは違うと思うなあ・・・。
イベントに遊ばれない自分でありたいな。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
「ルパン三世」の五ェ門にすっかり嵌った幸村です。
借りちゃいました。
テレビスペシャルを三本ほど。
見れば見るほど、朽木さん家の白哉くんとかぶるんだよね~。
五ェ門さん、兄様よりも数段お茶目だんではありますが、クール加減は負けず劣らずです。
幼き日の自分の好みが今と変わらないんだと確信(笑)。
この作品、最近のアニメよりカメラワーク(カメラワークっていうんかな;)のセンスがまるで違います。
これも、「ルパン三世」の制作スタッフさんたちの腕なのかしら。
ほんとにセンス高いです。見てて飽きない。
今のアニメって、画の完成度は非常に高くはありますがそれに頼ってしまっている感じがします。
最近、昔の作品を沢山見ています。そこで気づいたことは、デジタルではない昔のアニメの質が非常に高いということ。
どの作品も中身が濃いなって思う。話の内容とかも関係してるだろうけど。
ともあれ、「ルパン三世」のシリーズを制覇してみようかな~と思います(笑)。
アニメに兄様が出てくるまでは五ェ門に癒してもらおうと思います(笑)。
今日は随分疲れたなあ・・・幸村です。
清清しい秋晴れだった今日、この上ない自転車日和でした。
そんな訳で、自転車に乗って10キロくらい離れたモールへ行ってきました。十三時半頃に家を出たのでゆっくりはできませんでしたが・・・。それなりに収穫はありました。
そのモールに行くと必ず寄る和物の御店と雑貨屋にて、コースターと御箸、それとタンブラーを購入。
御箸は持ち歩き用にします。
ずっとずっと持ち歩く為の御箸を探してはいたんですが、中々気に入るものがなかった。が、しかし!今日は何と一目惚れくんに出逢いました★
蜻蛉玉をあしらった御箸!玉はポップな彩色です。何とも小粋な御箸です(笑)。
ああ~、この一膳に出逢う為に今までビビッとくるものがなかったんだわ・・・vv頷けます、はい。
しかし、まだ持ち歩けない問題が・・・。
それは、箸入れがないということ(致命的)。
御豆さんや茄子柄の箸入れがあったのですが、長さが合いませんでした。今日買った御箸はちょいと長めなのです。←長めの御箸スキスキv
その和物専門店で思ったのは、どうやら最近、びーどろや蜻蛉玉をあしらったものが流行っているらしいということ。タンブラーも箸も蜻蛉玉で飾りつけされていました。
硝子細工を用いたデザインだなんて、斬新だな~と感心。色合いも落ち着いていて、幸村の御箸フェチ(?)ハートに火をつけたのでした。ズキューン!って撃ち抜かれたしね(笑)。
・・・・・。
ズキューン!と言えばね、奥さん・・・(何だ突然)。
話が逸れますが、一月程前、電車に乗っていた時のこと。向かいに座っっていた女子高生がファッションの話をしていました。(皆御洒落さんだよな~。自分は未だに疎いのよね・・・そういう類。)
会話が耳に入って、幸村は驚いた。
「よな~!?あれ本間一目惚れしたわ。もう、一気にズキューン!って」(ここで彼女はクラッときた時のポーズをいれていた)
「うんうん!!」(ぶんぶんと首肯するもう一人の女子高生)
・・・Σ(○_○ )!?
お嬢さん、今何て・・・?
・・・ズキューン・・・?
幸村は、人知れず戦慄いていたので御座います(これホントの話)。
彼女たちがウサミミ仮面を知っているいないではなく、「ズキューン!」が女子高生の会話に出てくるということを知って吃驚したの。
そんなにメジャーな言葉なんだ?←知らなかった。
いえいえ、ズキューン!って言葉は知っていましたとも。しかしそんな・・・ねえ?!日常会話でサラッと出てくる言葉だとは思っていなかった。
幸村は只今、ズキューン!過敏症。
本日の話に戻しますが・・・。
洋服も見て回りましたが、ビビッとくるものがなくて収穫はゼロ。まあ、モールに行ったのも買い物の為じゃなくてサイクリングついでだったので構わないのですが。
それにしても、すっかり冬物になっていて驚いた(笑)。
だって都合と理由から、七月頃に足を運んだのを最後にそういう御店にはいってなかったんだもん。あの頃はまだ夏物が店内を飾り立てていたのに・・・。季節が変わった事を人口物でも実感した日です。
んー・・・でもさあ、ずっと思ってることなんだけど、どの御店も似たり寄ったりのデザインばっかりだよね。何処で買っても然したる違いがない気がする・・・。生地の良し悪しはあるでしょうが、傾向は皆同じ。
モールとか行くと何時も、「日本人ってこんなんかー・・・」と思います。皆、流行が好きだよね。街中の人をみてると、ファッション誌を見てなくても何が載っているのか分かるもん。
何年か前に二、三ヶ月くらい雑誌を買いましたが、どの月も同じようなものばかりですぐに飽きてしまいました。それ以来、全く手にしていません。でも、人を観察していると何がどう流行っているのかは一目瞭然なので(笑)困らないかな。
それに、自分は流行りを敢えて避けるから(笑)。アンチですアンチ(笑)。
一切を受け入れない訳じゃないよ?本当にいいと思ったら身につけることもある。でも、流行だからって理由で手にすることは先ず無い。
でもさ、聞いて!!
ワタシは小さい頃からネクタイが大好きで、カッターシャツにネクタイ締めてズボンってスタイルよくしてたのね。つい数ヶ月前までは男物でやや細身のネクタイとかを探すのは至難だったの!!
なのに、今、ネクタイが流行ってるでしょ?今までなかったレディースが並んでたりするのよね。(すごい力だよな、流行って・・・。)
御店に行ってネクタイ見てると(レディースは色々五月蠅いから相変わらず紳士用を見ている幸村)店員さんに声を掛けられます。
「どなたかに、プレゼントですか?」
「あ、いえ。自分のを」
「あら、そうなんですか。今流行ってますもんね」
今、 流 行 っ て ま す も ん ね
今流行ってますもんね!?(怒号)
この一言で、いつも切れる幸村。笑ってるよ?笑ってるよ?愛想振り撒いてるよ?でも内心には業火の炎が・・・!!(笑)。
オレは昔からネクタイ愛好家なんだっつーの!!!
流行っているから買う。流行っているから見る。
この考えが大抵の人にはあるようです。
一緒くたにされることに虫唾が走る幸村・・・返事を濁してネクタイを物色。
オレは元々ネクタイ野郎なんだぞぉ~(何だか悔しい思いをしている)。
一体何時まで続くのかなあ・・・ネクタイのブーム。
日本人は、
流行を追い駆けているように見えるけど、乗り遅れることに対する恐怖に駆り立てられているだけだと思います。
皆と一緒じゃなきゃ不安とか、皆がやってるから自分もそうしたい、とか。国民性っていえばそうなのかもしれませんが・・・そこに個性はないよね。
自分らしさは見てくれに出るとは言いませんが、皆同じ格好だと「らしさ」が蔑ろにされているような印象をうけます。
でも、本当に自分を見つめている人たちは、流行を取り入れつつ自身のスタイルを確立なさっているように思います。そういう本当に御洒落な方って、一目で分かるよね。
自分もそんな感じで、自己のテイストを大事にする人間の一人になれるよう、自己研究を怠らずにいこうぜ!
拍手、有難うございます!
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
なんだかなあ・・・幸村です。
最近始まったことではありませんが、色々と問題が多くて疲れてます。精神的に。他人によるものでは無く、大方自身の精神状態の在り様が原因なのですが。
何かをするにはそれなりのやる気・意識が必要です。それは、朝目覚めて布団の中から体を起こすだけにも言えます。
「起きよう」
この気持ちが無ければ起きられません。何の問題も無く体を起こせる人でも、気にしていないだけでその意識はある筈です。
食事を摂るのも御腹が空くだけじゃ食べはしません。
「食べよう」
と思えるから、自分で作ったり外食したり、形はどうあれ、ちゃんと口にものを運ぶんです。
何かをしようと思えるのは当たり前のことじゃない。
まして、それを行動に移すのは、簡単なことじゃない。
ワタシには、一つ一つが重い。強く意識しなければ思えないし、思ったところで行動と結びつかない。
だから、「これをしよう」「あれをしよう」と、当然のように支障なく毎日を過ごされている方々がすごいと思います。本当に羨ましいです。
自分は朝眼が覚めて体を起こすことも、一日のうち一度でも食事を摂る事も、それらをしようと思うだけで疲れます。はは・・・(眼が笑ってない)。
そして行動に移せないことが多々あります。
自分でコントロールが出来ないって、すごく辛いです。
「やらなきゃいけない」「やりたい」と思っても、体がついていかない。
精神と行動意識が統一されていない所為で自分の思うように行動出来ない時があります。
そこから色々問題が出てきて、
行き着く所は、生きている・生きていくことに対する無関心無感動、そして執着心の喪失。
もう長い付き合いなので今更ですが、最近はどうも深みを増したようで・・・(ほんと頼むからやめてくれ)。
喪失云々の中でボクが恐れるのは、感情が消えていくことです。
ある瞬間に「あれ?」って気づく。
「・・・何も感じてないな」って。
その時になって初めて「ヤバイ」と思う。
「結構危ないな~」なんて思う自分と、「まあいいか」と他人事のように感じている自分がいたりする。危ないとか思ってても、それ程深刻に捉えていない時点で後者が大きいことが分かります。
そして何より、この時の自分の二極性に言い得ぬ恐怖を感じます。二極化してるってのがはっきり分かるのは、それらを分析している第三者が存在してるからです。気持ち悪い程客観的で、自身に無関心な人間が明らかに自分の中で存在する。
三つに分かれる自分が酷く恐ろしいです。
あと、感情の喪失と共に顔から表情も消えていきます。
能面みたいになるの。正に兄様化ですよ!(ぃや・・・冗談言ってる場合じゃないんだけどさ)。
先ず、笑えなくなるの。何も感じなくなるにつれて笑顔が作れなくなる。
うーん何て言えばいいのかな。
心がね・・・蒸発していくっていうのかな。
まあるい半透明のものが心だとすると、周囲からどんどん消えていく。全体的に薄くなっていって、もう意識の手でも触れられなくなる。キラキラした小さな欠片が丸いものから蒸発していくように離れていく。音はしない。
そうして段々、心と言う名のまあるい半透明のものは人の中から姿を消すの。
「人間って、こうやって心が死んでいくんだな~」なんて思う。
ドラマや劇画で心が「壊れる」表現がありますが(硝子が割れたりする演出とか)、感情を支配する心の崩壊であれば、あの表現は間違いだな、と思います。
白哉兄様のことを(愛を籠めて)何だかんだ言ってる幸村ですが、症状がヤバイときは本当に顔が動きません。
誰かと居る時は、無意識に明るく振舞う癖があるので元気です(もうそんな自分に愛想を尽かしてしまった)。よく笑ってると思う(うまくいっていれば)。
一人になったらすごい沈み様です。今だって顔に感情の色がないものね(笑)。← 笑 って書いてても顔は無表情だったりする。文章と自分の表情は完全に剥離されてます;
そんな風に自分で意識出来ているだけ、まだましなのでしょうけれど。
自分やその他のことで何かと疲れたときは特に、しかし普段からでも、
「何も感じない、何も聞こえない、光とか闇とかそんな概念もない場所があれば、きっと気が楽になるんだ・・・」と思うことがあります。そこには最早、生きる生きないなんて問題もないだろうし。
こういうの、現実逃避っていうんですかね。
よく分かりませんけど。
暗い話題ですみません;
二時間ゾクゾクしっ放しでした幸村です。
今、テレビ番組のアンビリーバボーで
「ソウルメイト」
という話が出ていましたね。
前世から、魂の絆で繋がっている人同士の事をいうのだそうです。
実はワタシ、出逢ってます。ソウルメイトと。
いや、何の冗談でもありません。だから「ソウルメイト」というものがあるって出た瞬間、ゾクッとしましたよ!
「ワタシたち、前世は双子の姉妹だったね」
って言い合ってる親友がいるんです。
すごいんですよ、本当に。御互いの考えや感性が一致するのは当然というか。言い方が悪いけど、気持ち悪いくらいに同じなの。何か言い表せない感覚になるの。一緒にいると。落ち着くというか。
何もない筈はないって想い続けてきてたんですけど、そうか、ソウルメイトなんだ~。それで全部説明出来そうだ。
彼女とは小学生の頃にヴァイオリンのレッスンで出逢ってたんです。その時は、順番が前後のレッスン仲間、友達っていう感じで、月に一度の合同レッスンの時もずっと一緒にいる訳ではなかった。お互い、他の友達と一緒にいる方が多かったかな?
何年もしてから色んな事情で、レッスンで逢えなくなったんですね。
それから、文通をするようになったんです。どちらから始めたのか、何がきっかけだったのかはワタシは何も覚えていませんが、今も続いてる文通です。
そこで、どんどん御互いの共通点が湧き上がってきました。
運命だ・・・と思いました。
無論、毎日逢っている学校の友達にも親友は居ます。毎日逢っていて、じっくり話もしていれば、親友となれる確率は高いと思います。
しかし、この文通の彼女、実はレッスンで逢えなくなってから一度もあってなかったんです。
んー・・・逢えなくなってからあの音楽会までだから、何年くらい空いてたのかなあ。もう覚えてませんが・・・。
その間、ずっと文通だけでした。
電話もしてなかったし、携帯電話なんてなかったし。
だからこそ、分かったことが多かったかな。
更に言うと、音楽会から今日まで、彼女と逢ったのは・・・二回・・・?
あ、ホントに二回だ・・・。←自分でも吃驚。
違う?二回だよね多分。一昨年ライブで逢ったのと、去年家に来てくれたのと。
音楽会から一昨年のライブまで、一回も逢ってなかったとすると、ざっと考えて五年・・・。五年逢ってなかったのか・・・。
でも、昨日も逢ったような、毎日逢ってるような感じなの。何時逢っても、時間と場所の隔たりを感じない。
人生で出逢える人の数なんて、たかが知れてると思います。その中で、早々にこんなに大切な友人と逢えたのは、運命としか言えない。
出逢うべくして出逢った。
「前世で双子だった」ということがどうこうではありません。そんなの、カウンセリングしてもらうと、全く違う結果が出るかもしれない。
ただ、前世からの絆を持った人が各人に居るという話を聞いて、真っ先に浮かんだのが彼女だった。
何て言えばいいのかな~・・・(>_<) 本当に、「運命だ!」って思える人なの!
「片割れ」って言う言葉がありますが、正にそれなんです。彼女は自分の一部なんじゃないかって思う。分身というか、生き別れた何かというか。
逆に、自分は彼女の片割れなのかな~とも思います。
友情云々ではない付き合いです。
魂そのものを分かち合った存在。
二人といない、特別な友人です。
ソウルメイトって、すごく素敵な表現ですよね。
三度テンプレートを変更致しました幸村です。
だって今日、新しいのが出来てて、しかもしかも、ハローウィンなんだもの!!
「もうすぐ冬だから、白と蒼にしよう」と思って昨日までのにしていたんですが、こんなに時節にのったものが出てきたら乗り換えたくなっちゃった。
飽き性ですけど、昨日までのは自分ですんごく気に入っていたし、全然飽きてなかったんだけどね。やっぱり秋をすっとばしちゃってるから、ここいらでイベントっぽく(笑)。せめて気分だけでも、ね?!ね?!!
プラグインは手抜きです(苦笑)。並び替えただけだしね。ハローウィンまでは一月もないから、昨日までのテンプレートにまたすぐ戻れるようにしたの。だからやや手荒です。まあ、こういうのもたまにはいいかと(笑)。
今、BLEACHの#57から#58をリピートしています。
はあ・・・素敵・・・。何だか懐かしいわね~。この御話が放映されてからもうすぐ一年経つのかな?
早いね!!
時間があれよあれよと言う間に過ぎてゆく~。そして同時に齢を重ねている~・・・。
・・・・・・。
言わない方がよかったね・・・・。当然なんだし仕方ないんだし・・・。
歳を得れば得ただけ、魅力的な人になりたいよね。
年をとっただけの子供にはなりたくないもん。
兄様はさ、やっぱりそれなりに長い年月を経てきたからあんな風にいられるのかね。いや、彼は生まれついた環境が特殊だもんなあ。「一般的」とは言えないもんね。色んな苦労があっただろう事は想像に難くないなあ。
苦難の数に比例して、人の深みが増すのは観ていれば分かりますよね。芸能人と呼ばれる方々にせよ、自分が尊敬している人達にせよ、乗り越えてきた人って輝きが違うもん。
眼の力も違う。
きっと面と向って相対すれば、自分とは随分と持っている光が違うと思うの。
負けたくないじゃない、そういう素敵な人達に。
だから自分もへばってばかりじゃいられないんだよね。
今の状況のままでは危ないと御医者様にも言われたし・・・。いえいえ、命に関わる事ではないのですよ?まあ、でもそれなりに良くない状況(苦笑)。
負けてなんかいられない!!
置鮎の兄貴や甲斐田の姉さんみたいに、
毎日テンション高く!
毎日感謝を絶やさず!
自分を下手に抑え込まないで、流れる月影のような柔らかい想いで生きていければいいな。
不安なことは沢山あるけど、心が沁み亘る毎日になればいい。
そういう生活が基本にあってこそ、成長していく余裕が生まれるんだろうし。
よーし、がんばるゾ!
窓から流れてくる冷気に、冬の近さを覚える幸村です。
まだ秋だよ?!そうですよ。まだまだ秋ですとも。曼殊沙華だってやっと群生して咲き揃ったばかりだし、金木犀だってまだ言う程咲いてないのに・・・。
何だか一気に冬が来そうな予感がしています。
寒さの中にいると、苛々しっ放しなんですワタシ。だからこれからの季節はCaが不足し易いんだきっと・・・。
ここ数日、気が立っているのか非常に愚痴っぽい幸村。
blog内容も何だか低俗です。
八月の一ヶ月を挿んでから、記事内容の質が落ちました。執筆に掛けてる時間自体随分違うから当然と言えば当然なんですが。
生活から改めねばと思っているんですけれど、毎度のこと、思うに止まっていたりします。
自身の中身のなさにほとほと呆れてきました・・・。
どうすればいいのかなあ。
色々と悩んでみたり考えてみたりしても、いつも行き着く所は同じです。だから、分からないんじゃなくて、分かってないんじゃなくて、ただボクに、覚悟と実行力が無いだけなんです。
どう転んだって、自分には「今」という時制しか無いんだもの。
先の事を願うのも、過ぎたことを悔やむのも、必要ではあるけれど、一番大切なのはこの瞬間だと思います。いつもいつも自分でそう言ってる癖に、何も変わらない。
自分に出来る事も自分にしか出来ない事も、「今」を蔑ろにして生きていては、その先で出来る筈だった力を手に出来ず、
非力な、無力な人間になるだけ。
でも実際、頭で幾ら認識していようと理解出来ていなければ行動には移せない。呑み込まないと動けないんです、ボクは。
言い聞かせるという便利な手を持たないようでして。
この二年間でそれが顕著に出ちゃったんだよね・・・。だからこうして今だって煮え切らずに愚図愚図してるんです。自分が自分に愛想を尽かすなんて人生そうそうありますまい・・・。
これも経験なのかな。
やるかやらないかの二択しか無い世界で、ボクのように覚悟を持たず宙ぶらりんの状態で生きていると、結構疲れます。
何とかしたいという中途半端な意思がありますから、「腐敗した水の中で浸かっているだけ」というのは許せない。その癖 Yes, No を決められない。
ううーん。決められないことはないですね。
自分の中じゃ、自分にとって正しい道を既に選んでいるんです。
誰かにそれを正当化して貰えるのを待っているだけなんですよ、きっと。ただ、逃げてるだけなんだ。
自分が一番その暗い部分を知っているから、自身の腐り加減に対して余計に嫌気が差してくる。ほんっとに悪循環なんだもの。
手がつけられん!
ううー・・・何が悪いんだろう。
意気地の無さ?
ははっ。弛んでるだけです。
本気になったことがないから余計に。眼の色を変えて取り組めるもの、無かったからなあ。
でもね、思うの。あったとしても、ボクはきっと必死にはなれなかっただろうなーって。ならなかっただろうなーって。
何時だって、自分と相対するものには一歩の距離を置くボクは、それ以上の進入を許さない。人にもモノにも言えることみたい。
何が怖いのか知らないけど、踏み込まれるのも踏み込むのも拒絶する。相手が足を進めるとみると、直ぐに自分は同じ距離だけ足を退く。自分から踏み出すことは、先ず無い。
結局、中途半端で逃げ出すのがオチだったりする。今まで何度もあったしね。そして同時に「本気になろうとしない自分」が常に中に在る。
客観的に自分を見てる第三者的なボクは、幼い頃からこの上なく冷めていて、全てに於いて無関心。そして、いつも相手に疑心を抱いている。休まる時が無いくらい、人に対して不安を抱いている。
相手を信じられないのは、皆同じなのにね。
自分しか分からないんだもん。誰も真理は分からない。色んな特殊な能力をもつ人達もいるけれど、大半は心を読めない人だと思うし・・・。
だから、ボク一人がそうある訳では無い筈なんだけど・・・でもさ、皆同じだからって、何の慰めにもならないじゃない。
そんな事で「はい。そうですね」って言って話が納まるなら、こんなに苦しんでないよ・・・。
日本人の特徴として挙げられる「皆がそうだから、自分もそうあれば安心」ってやつ、ボクは該当しないから。
こういう悩みって、これからもずっと付き合っていかなきゃいけない気がするよ・・・。堂々巡りなんだもの・・・。
拍手、ポチッとありがとうございます!!
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助