幸村が気侭に綴るblog。 及川光博氏のメッセージ性・自己実現への姿勢を見習う日々。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
選択を迫られています、幸村です。
いや・・・、自分は随分前から、覚悟は出来ています。
岐路に立っているけれど、迷いなんて一つもありません。
もういつでも、足を踏み出すことは出来る。
ただ、周囲の同意を得られるか否か、という問題が残るだけです。
いつも言ってます。
人生って、一度だけ。
現在の自分が生きる現世(うつしよ)での人生はね。
世の中には、転生や生まれ変わりという考えがあります。
幸村は、否定しません。あっても不思議ではないと思ってる。
自分の前世の一つは、平安時代の京人(みやこびと)だったと信じ込んでいるし(笑)。
そう考えないと処理出来ないことって、結構あるもん。
でもね、
例え幸村という人間が、来世で転生し、新しい人生を歩めるとしても、
それはもう、来世の人間の人生です。
今、あなたに言葉を届けている私じゃない。
だからやっぱり、ワタシの人生は、一度きりなの。
それは、あなたも同じ。
人生は、一度きり。
今まで生きてきた中で抱えることになった喜びも後悔も、死ねば消える。
それだけだよね。
「実像」として眼に見える形で残るものは、何も無い。
ビデオ映像や声は、録画、録音といった形では残るけど、
本人が抱えるもの・・・想いとか願いとかは残らない。
ただ、生前、後世の人々に影響を与えて、彼等の中に生き続けることは、出来るかもしれない。
その中で、自分の信念を受け継いでもらって、ずっとずっと引き継がれることはある。
実際、世を去った後も、人の心の中に息づいている人は沢山いる。
でも、
世に残った人達の中に残る様相は、その人たち個人の主観で見てきたものであって、
描かれている人自身じゃない。
幸村で言えば、「幸村を見てきた人が描く幸村」であって、「幸村本人」じゃない。
「私自身」は、何も残らない。
それが現実だと思う。
(分かり難くてすんませんです・・・。この説明が、今の私には精一杯・・・。)
それって、単純に考えれば、
自分の本当の味を味わうことが出来るのは、自分だけってこと。
当たり前ですけどね。
他人の人生の味見が出来るなんて聞いたことないし、出来っこない。
出来ても、美味しくないと思う。
美味しいと思えても、永遠に楽しみ続けるってことは出来ないと思う。
他人の人生なんて、あくまで他人のものだもの。
どんなに強請っても自分のものには出来ないんだから。
ずっとその味を舐め続けることは不可能だから、余計に疲れちゃいそうだし・・・。
死ねば全てが白紙になる。
どんなに嬉しかったことも哀しかったことも、痛かったことも苦しかったことも、
ひょっとすると今抱えている、その嫌なものも全てが、きれいに消える。
自分の中からね。
そして、自分という存在も消える。
でも、
それで終わりだよね。
私は、自分から命を絶とうと思ったことは無いし、
自身で命を投げ捨てるという考えを分かち合えない。
それは、「幸村」という人生を、ここで終わるのが許せないからに他ならない。
今の自分にも今までの自分にも、満足なんてしたことないし、
これからの自分を、どこまで褒めてあげられるのかは分からない。
自分を心から愛してあげているとは言えないし、
今の自分、これまでの自分を許してあげることも出来ないまま。
だから、まだ死ねない。
今の自分に負けたまま終わらせるなんて、冗談じゃない。
幸村には、まだ遣り残したことが山程ある。
ただ、それだけ。
それ以外に、私が死にたくない理由は無い。
未練が残ってるんだよね、自分の人生に。
だから死ねないんだけど(笑)。
でも、それで充分かなって思う。
この歳で人生に何の未練も無く、自分の生き方に一片の悔いも無くて、
万事満足してますなんて、これからの人生ツマンナイだろうなーって思うから。
私が生きている、生きていく為の原動力の一部になってるかなあ。
「死にたい」じゃなくて、「消えればいい」と思ったことはあるんだけどね。
心が。
泡みたいに。
水が気体になるように、蒸発出来ればどんなに良いだろうって。
半年前、高校時代の友人と話してて、同じ想いを語った彼女に驚いた。
「この感覚、分かる人がいるんだ」って。
きっと、心が無くなれば、何も感じなくて済む。
そう思って、長い間生きた屍になってたけど・・・。
それでも、死ぬことは考えなかったな。
寧ろ「ここで死にたいって思える人は、楽だろうな」って思って羨んだくらいだから。
死ぬことに解決を求める事が出来るなら、現状がどれ程苦しかろうと、
「心」に逃げ場があるじゃない。
それは、「心が生きている証」だから、もし死にたいって思ったとしても、行動に移しちゃいけない。
逃げようとするその「必死な心」を、誰かに知ってもらおうとすることが先決。
逃げることは、この場合、何も悪くないと思う。
もがいてるだけだもん。
現実逃避と呼ばれる逃げる姿勢とは、まったく違うものだから。
それは、心が泣き叫ぶ衝動だと思ってる。
手に負えない激情は、通念で把握出来やしない。
言葉も体も、頭だって、対処しきれないことがある。
人間は、自分が知ってる事象でしか感情を表現出来ない。
極限まできた感覚を解放する為の方法を頭の中で考えると、
どれも自分が望む程満たしてくれなくて、
最終的に、行き着いてしまう。
「そっか。自殺しちゃえばいいんだ」
行き詰った人が自ら命を絶つには、もっともっと、色んな道程があるだろうけど、
私が経験した感覚からすると、こんな感じ。
私の場合は、命を消すことより、心を消すことだったけど。
この流れだったかな。
ずっとずっと、出口も見つからない中で悩んできて、
どうしようもなくなった時、ふっと思いついた。
「そうだよ。心がなけりゃ、楽になれるんじゃないの?」
これが、私にとって全てと言える答えだった。
ぐにゃぐにゃした道を、息を切らして必死に何かから逃れようと走ってきた。
真っ暗で何も見えないし、足元だって見えてやしないけど、
兎に角怖くて、怖くて耐えられなくて走ってた。
行き着いた場所は、行き止まりだった。
そこで、自分の心や精神が崩壊しないようにって、
それはそれは一生懸命になって考えた。
どうしよう、どうしようって。
足は、まだ走ってた。
足踏みでもしてなきゃ、おかしくなりそうだった。
もうダメ、こんな場所に居るなんて限界だ、でも先へは進めない。
引き返すなんて出来ないよ、何が追いかけてきてるかわからないもん。
そうやって、足踏みすることも出来なくなってきて、しゃがみこんで頭を抱え震えてた。
一瞬だった。
それまでの不安も恐怖も、何も感じなくなった。
その時、思いつく。
「消えればいい」
それが分かれば、もう何も怖くなかった。
物を考える余裕なんてハナから無いから、一つ思いつくと、それ以外に案なんて浮かばない。
あとは、どうやってそれを実行するかってことにしか、頭は働かなくなる。
その考えが、この世界に残された最後の手段だって、思い込んでしまう。
あの時、友人(特にいつも傍にいてくれた二人)がいなかったら、
彼女達があの世界の外から呼びかけ続けてくれていなかったら、
私は今頃どうなっていたか分からない。
いつだって、幸村は、周りのみんなに助けてもらってる。
簡単な、私の心理的体験描写だけど、自殺したいって思う人も同じような感覚なんじゃないのかなあ。
私には、根気強く壁を叩いて外の世界の存在を知らせてくれる友人が二人もいたから、救われたけど・・・。
ただ、そんな状況でも、一つだけ信じて止まないことがあった。
信じてるって言えば聞こえは良いけど、
正直なところ、そうありたいと願って止まないだけ。
「自分には、未来がある」ってこと。
命なんて呆気無いものだから、自ら命を絶たずとも、
その蝋燭の火が消えてしまうことはあるだろうけど、それでも、
自分には、きっと未来があるんだって、願ってた。
あってほしい。
死にたくない。
それだけ。
自分の事を愛してあげられるようになるまでは、終われない。
率直な言葉で言うと、
妥協や諦念、挫折や失意のまま、幕を下ろしたくないだけ。
だから今回は、どうしても譲れない。
それを選択したことで、どんな現実を見る破目になるのかなんて分からない。
・・・楽は出来ないだろうことは、難なく想像がつくんだけど(笑)。
でも、それを恐れて安穏な道を選択すれば、
もう一方を選びたかったという気持ちを、一生引き摺り続けることは目に見えてる。
それは正しく、火を見るよりも明らかだと思う。
後悔は、抱えるものじゃなくて役立てるもの。
どうせ忘れられないんだ。
だったら、容量の少ない頭に居座ってる家賃分くらいは働いてもらわないと。
役に立たないなら、役に立つようこっちから仕掛ける。
これまでの人生、散々同じような砂を舐めてきたのは、
ここで反復を招かない為だと思う。
いい加減砂の味覚えろよ、みたいな(笑)。
何べん舐めたって旨くはないんだからさ、って。
遅かれ早かれ、抱えたものが零になる運命なら、
この辺で、今まで溜め込んできたマイナスに助言をもらって、
今をプラスに導けるよう、踏ん張ってみるのもいい。
その後の跳躍が、ほんの少しでも。
飛距離が少しだって、進む事にかわりは無いんだし。
自分が「よかったな」って、どれだけ微塵であっても感じられるなら、
その瞬間の踏ん張りは、無駄じゃない。
そこで踏ん張って命が永らえたなら、それこそ儲けものだと思う。
命があるうちしか、出来ることは出来ないんだもん。
あー・・・。
人生ってほんと、難しいよね。
だからこそ、楽しみ甲斐があるんだろうけど。
選択を迫られています、幸村です。
いや・・・、自分は随分前から、覚悟は出来ています。
岐路に立っているけれど、迷いなんて一つもありません。
もういつでも、足を踏み出すことは出来る。
ただ、周囲の同意を得られるか否か、という問題が残るだけです。
いつも言ってます。
人生って、一度だけ。
現在の自分が生きる現世(うつしよ)での人生はね。
世の中には、転生や生まれ変わりという考えがあります。
幸村は、否定しません。あっても不思議ではないと思ってる。
自分の前世の一つは、平安時代の京人(みやこびと)だったと信じ込んでいるし(笑)。
そう考えないと処理出来ないことって、結構あるもん。
でもね、
例え幸村という人間が、来世で転生し、新しい人生を歩めるとしても、
それはもう、来世の人間の人生です。
今、あなたに言葉を届けている私じゃない。
だからやっぱり、ワタシの人生は、一度きりなの。
それは、あなたも同じ。
人生は、一度きり。
今まで生きてきた中で抱えることになった喜びも後悔も、死ねば消える。
それだけだよね。
「実像」として眼に見える形で残るものは、何も無い。
ビデオ映像や声は、録画、録音といった形では残るけど、
本人が抱えるもの・・・想いとか願いとかは残らない。
ただ、生前、後世の人々に影響を与えて、彼等の中に生き続けることは、出来るかもしれない。
その中で、自分の信念を受け継いでもらって、ずっとずっと引き継がれることはある。
実際、世を去った後も、人の心の中に息づいている人は沢山いる。
でも、
世に残った人達の中に残る様相は、その人たち個人の主観で見てきたものであって、
描かれている人自身じゃない。
幸村で言えば、「幸村を見てきた人が描く幸村」であって、「幸村本人」じゃない。
「私自身」は、何も残らない。
それが現実だと思う。
(分かり難くてすんませんです・・・。この説明が、今の私には精一杯・・・。)
それって、単純に考えれば、
自分の本当の味を味わうことが出来るのは、自分だけってこと。
当たり前ですけどね。
他人の人生の味見が出来るなんて聞いたことないし、出来っこない。
出来ても、美味しくないと思う。
美味しいと思えても、永遠に楽しみ続けるってことは出来ないと思う。
他人の人生なんて、あくまで他人のものだもの。
どんなに強請っても自分のものには出来ないんだから。
ずっとその味を舐め続けることは不可能だから、余計に疲れちゃいそうだし・・・。
死ねば全てが白紙になる。
どんなに嬉しかったことも哀しかったことも、痛かったことも苦しかったことも、
ひょっとすると今抱えている、その嫌なものも全てが、きれいに消える。
自分の中からね。
そして、自分という存在も消える。
でも、
それで終わりだよね。
私は、自分から命を絶とうと思ったことは無いし、
自身で命を投げ捨てるという考えを分かち合えない。
それは、「幸村」という人生を、ここで終わるのが許せないからに他ならない。
今の自分にも今までの自分にも、満足なんてしたことないし、
これからの自分を、どこまで褒めてあげられるのかは分からない。
自分を心から愛してあげているとは言えないし、
今の自分、これまでの自分を許してあげることも出来ないまま。
だから、まだ死ねない。
今の自分に負けたまま終わらせるなんて、冗談じゃない。
幸村には、まだ遣り残したことが山程ある。
ただ、それだけ。
それ以外に、私が死にたくない理由は無い。
未練が残ってるんだよね、自分の人生に。
だから死ねないんだけど(笑)。
でも、それで充分かなって思う。
この歳で人生に何の未練も無く、自分の生き方に一片の悔いも無くて、
万事満足してますなんて、これからの人生ツマンナイだろうなーって思うから。
私が生きている、生きていく為の原動力の一部になってるかなあ。
「死にたい」じゃなくて、「消えればいい」と思ったことはあるんだけどね。
心が。
泡みたいに。
水が気体になるように、蒸発出来ればどんなに良いだろうって。
半年前、高校時代の友人と話してて、同じ想いを語った彼女に驚いた。
「この感覚、分かる人がいるんだ」って。
きっと、心が無くなれば、何も感じなくて済む。
そう思って、長い間生きた屍になってたけど・・・。
それでも、死ぬことは考えなかったな。
寧ろ「ここで死にたいって思える人は、楽だろうな」って思って羨んだくらいだから。
死ぬことに解決を求める事が出来るなら、現状がどれ程苦しかろうと、
「心」に逃げ場があるじゃない。
それは、「心が生きている証」だから、もし死にたいって思ったとしても、行動に移しちゃいけない。
逃げようとするその「必死な心」を、誰かに知ってもらおうとすることが先決。
逃げることは、この場合、何も悪くないと思う。
もがいてるだけだもん。
現実逃避と呼ばれる逃げる姿勢とは、まったく違うものだから。
それは、心が泣き叫ぶ衝動だと思ってる。
手に負えない激情は、通念で把握出来やしない。
言葉も体も、頭だって、対処しきれないことがある。
人間は、自分が知ってる事象でしか感情を表現出来ない。
極限まできた感覚を解放する為の方法を頭の中で考えると、
どれも自分が望む程満たしてくれなくて、
最終的に、行き着いてしまう。
「そっか。自殺しちゃえばいいんだ」
行き詰った人が自ら命を絶つには、もっともっと、色んな道程があるだろうけど、
私が経験した感覚からすると、こんな感じ。
私の場合は、命を消すことより、心を消すことだったけど。
この流れだったかな。
ずっとずっと、出口も見つからない中で悩んできて、
どうしようもなくなった時、ふっと思いついた。
「そうだよ。心がなけりゃ、楽になれるんじゃないの?」
これが、私にとって全てと言える答えだった。
ぐにゃぐにゃした道を、息を切らして必死に何かから逃れようと走ってきた。
真っ暗で何も見えないし、足元だって見えてやしないけど、
兎に角怖くて、怖くて耐えられなくて走ってた。
行き着いた場所は、行き止まりだった。
そこで、自分の心や精神が崩壊しないようにって、
それはそれは一生懸命になって考えた。
どうしよう、どうしようって。
足は、まだ走ってた。
足踏みでもしてなきゃ、おかしくなりそうだった。
もうダメ、こんな場所に居るなんて限界だ、でも先へは進めない。
引き返すなんて出来ないよ、何が追いかけてきてるかわからないもん。
そうやって、足踏みすることも出来なくなってきて、しゃがみこんで頭を抱え震えてた。
一瞬だった。
それまでの不安も恐怖も、何も感じなくなった。
その時、思いつく。
「消えればいい」
それが分かれば、もう何も怖くなかった。
物を考える余裕なんてハナから無いから、一つ思いつくと、それ以外に案なんて浮かばない。
あとは、どうやってそれを実行するかってことにしか、頭は働かなくなる。
その考えが、この世界に残された最後の手段だって、思い込んでしまう。
あの時、友人(特にいつも傍にいてくれた二人)がいなかったら、
彼女達があの世界の外から呼びかけ続けてくれていなかったら、
私は今頃どうなっていたか分からない。
いつだって、幸村は、周りのみんなに助けてもらってる。
簡単な、私の心理的体験描写だけど、自殺したいって思う人も同じような感覚なんじゃないのかなあ。
私には、根気強く壁を叩いて外の世界の存在を知らせてくれる友人が二人もいたから、救われたけど・・・。
ただ、そんな状況でも、一つだけ信じて止まないことがあった。
信じてるって言えば聞こえは良いけど、
正直なところ、そうありたいと願って止まないだけ。
「自分には、未来がある」ってこと。
命なんて呆気無いものだから、自ら命を絶たずとも、
その蝋燭の火が消えてしまうことはあるだろうけど、それでも、
自分には、きっと未来があるんだって、願ってた。
あってほしい。
死にたくない。
それだけ。
自分の事を愛してあげられるようになるまでは、終われない。
率直な言葉で言うと、
妥協や諦念、挫折や失意のまま、幕を下ろしたくないだけ。
だから今回は、どうしても譲れない。
それを選択したことで、どんな現実を見る破目になるのかなんて分からない。
・・・楽は出来ないだろうことは、難なく想像がつくんだけど(笑)。
でも、それを恐れて安穏な道を選択すれば、
もう一方を選びたかったという気持ちを、一生引き摺り続けることは目に見えてる。
それは正しく、火を見るよりも明らかだと思う。
後悔は、抱えるものじゃなくて役立てるもの。
どうせ忘れられないんだ。
だったら、容量の少ない頭に居座ってる家賃分くらいは働いてもらわないと。
役に立たないなら、役に立つようこっちから仕掛ける。
これまでの人生、散々同じような砂を舐めてきたのは、
ここで反復を招かない為だと思う。
いい加減砂の味覚えろよ、みたいな(笑)。
何べん舐めたって旨くはないんだからさ、って。
遅かれ早かれ、抱えたものが零になる運命なら、
この辺で、今まで溜め込んできたマイナスに助言をもらって、
今をプラスに導けるよう、踏ん張ってみるのもいい。
その後の跳躍が、ほんの少しでも。
飛距離が少しだって、進む事にかわりは無いんだし。
自分が「よかったな」って、どれだけ微塵であっても感じられるなら、
その瞬間の踏ん張りは、無駄じゃない。
そこで踏ん張って命が永らえたなら、それこそ儲けものだと思う。
命があるうちしか、出来ることは出来ないんだもん。
あー・・・。
人生ってほんと、難しいよね。
だからこそ、楽しみ甲斐があるんだろうけど。
プロフィール
HN:
幸村玖月
HP:
性別:
非公開
趣味:
ストレッチ。歌。シャドーイング。
自己紹介:
≪座右の銘≫
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助
幸村の本棚
アーカイブ
2012年7月からがベイベー記事。
AD
AD
PR
アクセス解析