想うことは沢山ある。
でも、
言葉の世界に赴いた僕が、長い旅の途中で心を表す言葉を見つけられなければ、
その想いは言葉で表現出来なくなる。
選び出せない想いは、ずっとずっと、
僕の心の部屋の中に閉じ込められたままになる。
想いは、眼にみえないからね。
音として聞くことも、触って感じることも出来ないから、
伝えるためには、何か表現するしかない。
もともと言葉を選ぶことにすごく時間が掛かる僕には、ちょっとしんどかったりもするんだけど。
それでも、言葉の世界で歩き疲れることはないんだよね。
どんなに長い時間歩き続けても、結局心にぴったりくる単語が見つからなかったとしても、
伝える為なら、辛くはない。
寧ろ、どきどきする。
「何処にあるんだろう」「どんな言葉が良いだろう」って。
言葉に色は無い。
だから、その世界にも色は無い。
でも、
僕が伝えたいと思うなら、届いてほしいと願うなら、
僕の心に反応して、選ばれた言葉たちは色をもつ。
言葉の魂が、僕の魂に応えてくれる。
輝くとも言えるし、発光するとも言える。
その色は、僕の心に拡がった瞬間、
「文字」とか「音」になって、色んな人達の目や耳に触れることとなる。
僕が見る色は、僕の色。
他の人達に届く時は、その人達の主観によって、違う色になる。
人によって、一つの言葉一つの文字が生み出す色、見える色は違う。
言葉は、自分の色を持たないから、その人が思った通りの色を見せる。
見る人が、思う色、感じる色にしか見えない。
だから、
こちらの色をより確実に届ける為に、一所懸命伝えようとしなくちゃ。
一番大切なのは、飾らないこと。
相手の心に、一直線に届くだろう言葉を選ぶこと。
何より、「伝えよう」という意志をもつこと。
それを、心と言葉に籠めること。
響きの良さやイメージの良さを重視して、言葉に籠める中身を蔑ろにすることは、絶対にしちゃいけない。
生半可な想いなら、言っても言わなくても同じだよ。
だから、自分の言葉には責任をもたなきゃいけない。
発する言葉は、心の声。
自分の飾らない想い。
そこには自分の魂に呼応した言霊が宿っているから、蔑ろに出来る文句は一つも無い筈。
だから、いつも思ってる。
こちらが発する言葉には、真剣に向き合ってほしい、って。
押し付ける気はサラサラないよ?
僕が言う言葉は僕の想いであって、他の誰のものでも無いもの。
受け取った人の主観によって、僕から出た言葉は無限に変化してしまう。
同意も反意も、抱くのはその人の自由だから。
ただ忘れないでほしいのは、
「僕は、生半可な気持ちで文字を綴ってるんじゃない」
ってこと。
この一年間、一度だって、blogに載せた言葉を蔑ろにしたつもりはない。
馬鹿な話なら馬鹿話なりに、真剣な話なら真剣な話として、
自分が思うことをあなたに伝えようと、必死になって言葉を選んだ。
漢字にする方が良いのか、平仮名にする方が良いのか、ってことも含めて。
自分の文章を人に見せることは、自分の誇りを懸けてると言っていい。
文字にする以上、一言一句、無駄にしたくはない。
日が経って、想いが変わったとか、考え方が変わるってことはある。
だから、前に言ってたことと違うじゃないかって部分はあると思う。
でも、例え時間が過ぎて、自分の意見が変化したとしても、
意見が変わったからといって、それまで書き綴った言葉は意味を持たなくなったのかというと、そうじゃない。
書いていたその瞬間は、その言葉が幸村にとって、何よりの真実だから。
大見得切って言ってもいい。
私は、自分の言葉を大事にしてる。
だからこそ、自分の言葉は人を傷つけていないだろうかって、いつも怖い。
色んな可能性を考慮して言葉を選んだり、注釈をつけるけど、
私には想像出来ないことが、沢山あると思う。
つまり、自分が察し得ないところで、誰かが傷ついているかもしれないということ。
でも、これだけの数の人間を相手に、誰一人傷つけずにいるなんて、不可能だと思う。
自分に出来る限りの努力はするけど、傷つく人は傷つくだろうから、それはやっぱり避けられない。
それと同時に、これだけ必死になったって、届かないものは届かない。
いくら言ったって、真剣に言葉と向き合ってくれない人は向き合ってくれない。
伝えたいことが伝えきれないこともある。
それは、仕方ないと思う。
この世の中、願えば必ずや全てがうまくいくなんてことは無いと思ってる。
うまくいかないことだってあるよ。
出来ないことも、沢山ある。
願えば何でも成就する世界なら、誰も苦しんでない筈だもの。
飢えで亡くなる人だっていない筈だ。
経済的に苦しむ人達だっていない筈だし、
想いが届かなくて胸を痛めることだって無い筈だ。
でも、だからこそ、人は生きていけるんだと思う。
あなたに分かってほしくて、時間をかけて言葉を選ぶ僕がいるように、
もっとこうしたいって思うから、進んでいけるし、続けていける。
目を閉じて全てが分かるなんて、それほど味気ないものは無いと思う。
叶わないから、手に入れよう、実現させてやろうって、一所懸命にも一生懸命にもなれる。
分からないから、分かり合いたいと思える。
その過程で、あなたや彼女、彼を傷つけているかもしれないけど、
それはきっと、お互い様なんだと思う。
自分ばかりが嫌な思いをしているわけじゃないと思うよ。
自分だけが悩んでるわけじゃないし。
人間は「言語」と呼ばれる言葉を持っているから、基本的には「会話」をすることでコミュニケーションを図る。
方法は、口だけじゃなくて、手とか仕草とか、色々あるけど、
多分、一番多いのは声によるコミュニケーション。
あとは、文字。
・・・それだけしかないじゃない。
自分の気持ちを他人に伝える方法なんて。
息もしない、顔も動かさない、声も出さない、手紙も書かない、
自分の筋一本動かさず、鼓動も聞かせず、
なーんにもせずに、
他人に想いを伝えることなんて出来ないじゃん。
人間は(人間に限らず生き物は)、何かしら行動によってしか、伝えられない。
イルカなら超音波とかあるけど・・・そういうのも使わないで気持ちを表現する事は不可能でしょ。
伝えようとする意志がないと、伝わらない。
心がないと、響かない。
文字や言葉を遣わないと、自分を表現出来ないということは、
文字や言葉しか、自分を表現出来るものはないということ。
それを蔑ろにすることは、自分を蔑ろにするも同然だと思う。
軽い気持ちで扱える言葉なんて一つとして存在しない。
あなたが口にするその言葉は、一字一句、「意味」を持ってるんだもの。
そこには、少なからず、力が宿ってると信じてる。
自分の発する言葉は、大切にしてほしい。
同時に、
人が発する言葉を、同じくらい、大切にしてほしい。
これは、最近すごく強く思う。
意味を考えずに、「遣いたいから遣う」「こういう時にはこれを遣う」っていう暴言が目に余るもの。
その言葉がどういう意味か、どういうことを指しているか、考えたことがあるのか?って、
胸ぐら掴んで問い質してやりたくなる時があるよ。
・・・殺し合いのゲームの影響って、本当に怖い。
あと、その場凌ぎの平謝りや挨拶も、悲しくなる。
「そんな、思ってもないこと口にするなら、頭下げなきゃいいのに」って。
まあ、世の中、体(てい)ってものがあるからね・・・。
きっと皆、柵(しがらみ)の中で生きているから、仕方の無いことなんだと思う。
でも、例えそうであっても、
やっぱり、言葉は、大切にしてほしい。
一年目を迎えた幸村blog、「言葉と心は飾れない」。
節目ということもあって、長々と書いてしまいましたが・・・。
そうね、これからまた、自分なりに進めていこうかなって思ってます。
幸村は、幸村の言葉で、自分の気持ちを綴っていきます。
そんなblogですが、これからも、宜しく御願い致します。
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
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