幸村が気侭に綴るblog。 及川光博氏のメッセージ性・自己実現への姿勢を見習う日々。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
要領を得ないメールや電話には本当に腹が立ちます幸村です。
いいんです、いいんですよ!!心配しないで下さい。
blog上で感想等を寄せてくださる分には、感想のみでも天に舞い上がる程嬉しいですvv
励ましを送ってくださるだけで、幸村には力になります。
冒頭で言っているのは、普段携帯電話に入るメールの事。
連絡としてやりとりする時の事です。
知り合いに、何を言いたいのか分からないメールを矢鱈めったら送ってくる人間がいます。男子です。男子っていうか男の人っていうか・・・。いい年してアンタ・・・って思っちゃう。
あんまり親しい訳じゃないのね。あくまでボクはそう思ってるんだけど。
相手は仲良しって思ってるみたい・・・です。何て付き合いがある訳じゃないんだけど、向こうはこっちに随分親しみを感じているようで・・・。
メールアドレスも、事情があって聞かねばならなくなり・・・勿論教えねばならなくなり・・・今に至る。
最近毎日メールが着ます。
しかも何を聞きたいのか分からない、要領の得ないものが着ます。
昨日のメールはこんなの。
「今忙しい~?」
これは・・・・何だ?
ボクが忙しいか忙しく無いかを聞いてどうだと言う。
それを聞いて何を知りたいかを明記しろよと思います。
用件、目的、内容、理由、そういうものをはっきりと書いてほしいんですよ。だって聞いて!!←完全に女の愚痴と化しているゾ幸村・・・。
こんなメール貰ったらさ、核心を述べるまでに何度も何度もメールのやり取りをしないといけないじゃん!?
何でそんな手間掛けさせるの?!
「○○の事で聞きたいことがあるんだけど、今忙しい?メールする時間あるかな?」
これで一発じゃん。
そしたらさ、ボクは的確な返事を送れる訳でしょ?
先週末、夜中24時頃にこんなのも着ました。
ボクはもう寝てましたけど・・・。
「明日、○○へ行くよ~(顔文字)」
・・・だから?
ボクに何を言えと言う。
次の日。
「家にパソコンある~?」
だーかーらー!!
それは如何なる事を聞く為の質問なのかをはっきり一度に送って来いと!!
ME:「あるよ」の後、まだまだたらたらと続けてやっと本題に入る。
時間の無駄です。
連絡は端的に、分かり易く、一度で状況を理解させるものでなくてはなりません。
本題に入れないメールや電話なんて無駄としか言えない。
それに先日、宵にやりとりする時間がなかった為に返信不要という文意を汲み取れるよう文章を打ったにも関わらず、
電話がきました。
メールの文末に「それでは。」って打ったの。
要するに、遠巻きにメールは不要って打ったの。
時間が無いって言ってるの。
普通、文末に「それでは。」ってあったら、連絡はしないと思うの。
何か都合があるんだろうなって察するのが普通だと思うの。
五分くらいしてから・・?
電話が着たの。
電話、何も中身がないのに電話が着たの。
しかもさ、もお・・・←思い出すだけで頭にキテイルゾ幸村。
はっきりしないんだよ。
「言ってなかったことがあるんだけど、どうしよう・・・。言おうかな。ううーん・・・やっぱ止めようかな・・・。」とか何とかではっきりしないんだよ・・・。
時間が無い身の上、この数十秒も惜しいんだけど?悩むならもう話さなくていいよ、って思ってたらさ、
「どっちがいい?」
って抜かしやがった。
は・・・?
としか言えず思えず。
口開けて固まりました。
信じられない・・・。
「言ってもいいんだけど・・・どうしようかなぁ。聞きたい?聞きたくない?」
ME:「要らない。聞かなくていい。」
なんて言えますか?!
友達じゃないとは言え、顔見知りですよ?
んな失礼なこと言えないよ!!
親友ならさ、時間が無いところに電話が来ても(ボクの友人は皆頭が切れるのでそんなことはありませんけど~♪←何気に自慢(笑)。)
正直に「時間が無いから聞いてあげられない~(><)また今度聞かせて~vv」って言えるから断れるけどよ?!
ME:「どっちでも」
としか言えずに、結局ヨロヨロ定まらない話に付き合わされて・・・。
それで終わるかと思ったらさ、
ほんっっっっっっっっっっ・・・とに中身の無い話を延々ダラダラ続けようとするもんだから、
ME:「ごめん。今から用があるから」って、切っちゃった。
・・・・相手の文意を読み取れない人っていると思います。そういうのが苦手な人は居ますとも。それは得手不得手ですから仕方ないと思います。
でも、ワタシが述べている男の人は、文意を「読もうとしてない」んですよ。正直、疲れます・・・。頼むから気づいてくれ・・・。
いい加減、そろそろ切り上げたいんだけど?って(まさか!ここまで露骨に書きませんよ。)打っても、御構い無しです。
以前、電話をかけて来たと思ったら
ME:「何?」
HE:「いや、どうしてるかなーと思って」
です。
そーゆーのは付き合ってる人間同士が相手の声を聴きたくてやるもんだろーヨ~!!???オレの立場を考えろー(鉄拳)。
手前の都合で付き合わせるなっつーのー・・・(T_T)
御願いだからもうやめて。
白哉兄様を好きになってから、恋愛の切なさとか、不意に声を聞きたくなるとか、髪を撫でて欲しいとか色々教わりました。声が聞ければとても心安らいだり、温かい気持ちになれたりする。
笑顔を見ると、此方もふっと表情が緩みます。
きっと、愛し合っている二人、若しくは二人以上のカップルさんたちは電話やメールで他愛も無い事を話し合っていたとしても、御互いの存在と温もりに心預けているのだと思うのです・・・が、
オレ等はそんなんじゃない。
言っておくが、雀の涙どころか蟻の汗、いやミジンコのそれら以下もない。酷い言い様だと思うかもしれんが、本当にそんなもんなんだから仕方ない。
オレが悪いんじゃねえんでいっ!!←突然江戸っ子・・。
兎に角、連絡に於ける「的を獲ないメール」は嫌いです。電話も然り。
ううーん。でも基本的に携帯電話が好きじゃないからなあ。この御時勢、携帯電話を手にしていないと仕事でも先方に迷惑を掛けてしまいますし・・・。持っていないといけない状況にある為、仕方なく遣っている状態です。
だから、携帯電話でのコンタクトは余り好むところではないと言うか。
PCのメールなら、両手で打ち込めるし画面も大きいから嫌いじゃないよ。
電話も、固定電話や子機なら話すのも嫌じゃない。
むうぅぅ・・・中々難しい世の中になってきましたなあ。
はい。
相手の言わんとしている事を推測しない人は困ります・・・(涙)。
人の言葉のみならず、相手のあらゆる反応から心意と真意を推し量ってくれる人、大好きvv
自分もそういう気の利く人になれるよう、もっともっと心掛けねば!!
「人のふり見て我がふり直せ」
よし!!頑張るぞ!!
あっ♪明日(いや、もう今日だけど)は水曜ですよ~~。
マイメロ&ぬ~べ~&鋼レンがあります。鋼レンは最早、スカーさんが出てないけれど・・・(さめほろ)。実は彼の一番の見所(と思われる)を見逃したんだ・・。
でもね、明日(だからもう今日)は柊先輩(@マイメロ)が主役らしいから☆
それを拝むために一日頑張れるの(笑)。
要領を得ないメールや電話には本当に腹が立ちます幸村です。
いいんです、いいんですよ!!心配しないで下さい。
blog上で感想等を寄せてくださる分には、感想のみでも天に舞い上がる程嬉しいですvv
励ましを送ってくださるだけで、幸村には力になります。
冒頭で言っているのは、普段携帯電話に入るメールの事。
連絡としてやりとりする時の事です。
知り合いに、何を言いたいのか分からないメールを矢鱈めったら送ってくる人間がいます。男子です。男子っていうか男の人っていうか・・・。いい年してアンタ・・・って思っちゃう。
あんまり親しい訳じゃないのね。あくまでボクはそう思ってるんだけど。
相手は仲良しって思ってるみたい・・・です。何て付き合いがある訳じゃないんだけど、向こうはこっちに随分親しみを感じているようで・・・。
メールアドレスも、事情があって聞かねばならなくなり・・・勿論教えねばならなくなり・・・今に至る。
最近毎日メールが着ます。
しかも何を聞きたいのか分からない、要領の得ないものが着ます。
昨日のメールはこんなの。
「今忙しい~?」
これは・・・・何だ?
ボクが忙しいか忙しく無いかを聞いてどうだと言う。
それを聞いて何を知りたいかを明記しろよと思います。
用件、目的、内容、理由、そういうものをはっきりと書いてほしいんですよ。だって聞いて!!←完全に女の愚痴と化しているゾ幸村・・・。
こんなメール貰ったらさ、核心を述べるまでに何度も何度もメールのやり取りをしないといけないじゃん!?
何でそんな手間掛けさせるの?!
「○○の事で聞きたいことがあるんだけど、今忙しい?メールする時間あるかな?」
これで一発じゃん。
そしたらさ、ボクは的確な返事を送れる訳でしょ?
先週末、夜中24時頃にこんなのも着ました。
ボクはもう寝てましたけど・・・。
「明日、○○へ行くよ~(顔文字)」
・・・だから?
ボクに何を言えと言う。
次の日。
「家にパソコンある~?」
だーかーらー!!
それは如何なる事を聞く為の質問なのかをはっきり一度に送って来いと!!
ME:「あるよ」の後、まだまだたらたらと続けてやっと本題に入る。
時間の無駄です。
連絡は端的に、分かり易く、一度で状況を理解させるものでなくてはなりません。
本題に入れないメールや電話なんて無駄としか言えない。
それに先日、宵にやりとりする時間がなかった為に返信不要という文意を汲み取れるよう文章を打ったにも関わらず、
電話がきました。
メールの文末に「それでは。」って打ったの。
要するに、遠巻きにメールは不要って打ったの。
時間が無いって言ってるの。
普通、文末に「それでは。」ってあったら、連絡はしないと思うの。
何か都合があるんだろうなって察するのが普通だと思うの。
五分くらいしてから・・?
電話が着たの。
電話、何も中身がないのに電話が着たの。
しかもさ、もお・・・←思い出すだけで頭にキテイルゾ幸村。
はっきりしないんだよ。
「言ってなかったことがあるんだけど、どうしよう・・・。言おうかな。ううーん・・・やっぱ止めようかな・・・。」とか何とかではっきりしないんだよ・・・。
時間が無い身の上、この数十秒も惜しいんだけど?悩むならもう話さなくていいよ、って思ってたらさ、
「どっちがいい?」
って抜かしやがった。
は・・・?
としか言えず思えず。
口開けて固まりました。
信じられない・・・。
「言ってもいいんだけど・・・どうしようかなぁ。聞きたい?聞きたくない?」
ME:「要らない。聞かなくていい。」
なんて言えますか?!
友達じゃないとは言え、顔見知りですよ?
んな失礼なこと言えないよ!!
親友ならさ、時間が無いところに電話が来ても(ボクの友人は皆頭が切れるのでそんなことはありませんけど~♪←何気に自慢(笑)。)
正直に「時間が無いから聞いてあげられない~(><)また今度聞かせて~vv」って言えるから断れるけどよ?!
ME:「どっちでも」
としか言えずに、結局ヨロヨロ定まらない話に付き合わされて・・・。
それで終わるかと思ったらさ、
ほんっっっっっっっっっっ・・・とに中身の無い話を延々ダラダラ続けようとするもんだから、
ME:「ごめん。今から用があるから」って、切っちゃった。
・・・・相手の文意を読み取れない人っていると思います。そういうのが苦手な人は居ますとも。それは得手不得手ですから仕方ないと思います。
でも、ワタシが述べている男の人は、文意を「読もうとしてない」んですよ。正直、疲れます・・・。頼むから気づいてくれ・・・。
いい加減、そろそろ切り上げたいんだけど?って(まさか!ここまで露骨に書きませんよ。)打っても、御構い無しです。
以前、電話をかけて来たと思ったら
ME:「何?」
HE:「いや、どうしてるかなーと思って」
です。
そーゆーのは付き合ってる人間同士が相手の声を聴きたくてやるもんだろーヨ~!!???オレの立場を考えろー(鉄拳)。
手前の都合で付き合わせるなっつーのー・・・(T_T)
御願いだからもうやめて。
白哉兄様を好きになってから、恋愛の切なさとか、不意に声を聞きたくなるとか、髪を撫でて欲しいとか色々教わりました。声が聞ければとても心安らいだり、温かい気持ちになれたりする。
笑顔を見ると、此方もふっと表情が緩みます。
きっと、愛し合っている二人、若しくは二人以上のカップルさんたちは電話やメールで他愛も無い事を話し合っていたとしても、御互いの存在と温もりに心預けているのだと思うのです・・・が、
オレ等はそんなんじゃない。
言っておくが、雀の涙どころか蟻の汗、いやミジンコのそれら以下もない。酷い言い様だと思うかもしれんが、本当にそんなもんなんだから仕方ない。
オレが悪いんじゃねえんでいっ!!←突然江戸っ子・・。
兎に角、連絡に於ける「的を獲ないメール」は嫌いです。電話も然り。
ううーん。でも基本的に携帯電話が好きじゃないからなあ。この御時勢、携帯電話を手にしていないと仕事でも先方に迷惑を掛けてしまいますし・・・。持っていないといけない状況にある為、仕方なく遣っている状態です。
だから、携帯電話でのコンタクトは余り好むところではないと言うか。
PCのメールなら、両手で打ち込めるし画面も大きいから嫌いじゃないよ。
電話も、固定電話や子機なら話すのも嫌じゃない。
むうぅぅ・・・中々難しい世の中になってきましたなあ。
はい。
相手の言わんとしている事を推測しない人は困ります・・・(涙)。
人の言葉のみならず、相手のあらゆる反応から心意と真意を推し量ってくれる人、大好きvv
自分もそういう気の利く人になれるよう、もっともっと心掛けねば!!
「人のふり見て我がふり直せ」
よし!!頑張るぞ!!
あっ♪明日(いや、もう今日だけど)は水曜ですよ~~。
マイメロ&ぬ~べ~&鋼レンがあります。鋼レンは最早、スカーさんが出てないけれど・・・(さめほろ)。実は彼の一番の見所(と思われる)を見逃したんだ・・。
でもね、明日(だからもう今日)は柊先輩(@マイメロ)が主役らしいから☆
それを拝むために一日頑張れるの(笑)。
第一線で生きる人、所謂プロと呼ばれる人は、やはり違う。
言葉に、力がある。
彼が言葉を発するだけで、ボクは生きる力を貰えた。自分の甘さも知らされた。
先日、ある方に言われた言葉がある。
「声に力がないといけない。声に心がないといけない。声に魅力がないといけない」
今日、眼の前でそれを突き付けられた。
そして思う。
ボクにはまだ、心が足りない。力が足りない。魅力が足りない。
上手い下手じゃなくて、心があるか否か。心が籠められているかどうか。
心って、すごく難しいよね。
言葉に、力がある。
彼が言葉を発するだけで、ボクは生きる力を貰えた。自分の甘さも知らされた。
先日、ある方に言われた言葉がある。
「声に力がないといけない。声に心がないといけない。声に魅力がないといけない」
今日、眼の前でそれを突き付けられた。
そして思う。
ボクにはまだ、心が足りない。力が足りない。魅力が足りない。
上手い下手じゃなくて、心があるか否か。心が籠められているかどうか。
心って、すごく難しいよね。
おはようございます。こんんちは。こんばんは。
悩みがずっしりきていて、とても気が重い幸村です。
・・・・悩みだけが原因じゃないんだけど・・。
如何するべきなのかなんて、ずっと前に答えが出ている筈なのに、それを受け入れられなくて意味の無い堂々巡りをしている。
イタチゴッコです。
いい加減、悪循環もここまで親しくなると離れられないんだなあ・・・なんて諦念気味。
断ち切れるのは、自分の意志の強さ以外何もないのだけれど。
ぅぅ・・・・。
「生きるだけ」なら、水と塩があればいいんだけど。
それで一週間以上は生命維持が出来るそうです。
だけど。
人間、何かしらありますからね。
それだけではやはり生活が出来ない訳です。
如何しても他人と関わらなければならないし。
前に言いました。
「現在の人間社会に居る以上、一人で生きることは不可能だ」と。
「生きること」は出来るのに、
「生きていくこと」はそうそう出来ない。
でも。
自分には「死ぬ覚悟」もありませんから、生きていくしかないんです。
だから、生きているのかもしれません。命を粗末にしたくありませんしね。
でもそれは
「死なない覚悟」でも「生きていく覚悟」でも無くて、
ボクの場合はただの「生きる覚悟」でしかない。
自分がよくても、誰かを哀しませることになるなら、
一人でも、自分が命を絶つ所為で心を痛める存在があるのなら、
その人には「生きる義務」があると思います。
ボクにも、義務があります。
そこに「生きる意味」がなかったとしても、生きなければいけない。
「義務」の中に「意味」は存在しませんから、
そこに自分の生存理由・存在意義を求めてはいけません。
幸村はそう思ってます。
それは他人から与えてもらうものではなく、自分で決めるしかないから。
理由や意義を「見つけること」「探すこと」を考えるより「自分で生み出す」ようにした方がいいかもしれません。
ワタシはそうやって、中学の時「生きる理由」を自分で決めました。
先の話とは無関係ですが、あと一つ。
自分にしてみれば極自然の文面でも、相手にすれば気に障ることってやはりあるんだろうなぁ、と思います。
今それがあって、・・・一気に辛い心境に墜ちてしまった。
もう止めとこうね、ゆきむら。
常に「相手に嫌われるんじゃないか」という恐怖心があるので、反応一つ一つを気にしてしまう。
返事や返信が無いだけで、
「あ、嫌なこと言った(した)のかな」
って思ってしまう。
気にしなくて済む人もいるけれど、それでもやっぱり何処かで不安に思っている。安心出来ない。
誰でもそんなもんなのかな。
「そんなんじゃ気が保たないでしょ・・・」と呆れられますが、
気は保てていません(苦笑)。いつもギリギリですから;
でもま、自分が身を退けば全て解決なので(苦笑)。
逃げてるだけなのかもしれないけどね。
自分に贈りたい一言。
「忍耐という字を噛締めてみろ」
逃げるしか脳のない自分がいることは事実です。
サヨナラを言える日が来るよう、努力します。
悩みがずっしりきていて、とても気が重い幸村です。
・・・・悩みだけが原因じゃないんだけど・・。
如何するべきなのかなんて、ずっと前に答えが出ている筈なのに、それを受け入れられなくて意味の無い堂々巡りをしている。
イタチゴッコです。
いい加減、悪循環もここまで親しくなると離れられないんだなあ・・・なんて諦念気味。
断ち切れるのは、自分の意志の強さ以外何もないのだけれど。
ぅぅ・・・・。
「生きるだけ」なら、水と塩があればいいんだけど。
それで一週間以上は生命維持が出来るそうです。
だけど。
人間、何かしらありますからね。
それだけではやはり生活が出来ない訳です。
如何しても他人と関わらなければならないし。
前に言いました。
「現在の人間社会に居る以上、一人で生きることは不可能だ」と。
「生きること」は出来るのに、
「生きていくこと」はそうそう出来ない。
でも。
自分には「死ぬ覚悟」もありませんから、生きていくしかないんです。
だから、生きているのかもしれません。命を粗末にしたくありませんしね。
でもそれは
「死なない覚悟」でも「生きていく覚悟」でも無くて、
ボクの場合はただの「生きる覚悟」でしかない。
自分がよくても、誰かを哀しませることになるなら、
一人でも、自分が命を絶つ所為で心を痛める存在があるのなら、
その人には「生きる義務」があると思います。
ボクにも、義務があります。
そこに「生きる意味」がなかったとしても、生きなければいけない。
「義務」の中に「意味」は存在しませんから、
そこに自分の生存理由・存在意義を求めてはいけません。
幸村はそう思ってます。
それは他人から与えてもらうものではなく、自分で決めるしかないから。
理由や意義を「見つけること」「探すこと」を考えるより「自分で生み出す」ようにした方がいいかもしれません。
ワタシはそうやって、中学の時「生きる理由」を自分で決めました。
先の話とは無関係ですが、あと一つ。
自分にしてみれば極自然の文面でも、相手にすれば気に障ることってやはりあるんだろうなぁ、と思います。
今それがあって、・・・一気に辛い心境に墜ちてしまった。
もう止めとこうね、ゆきむら。
常に「相手に嫌われるんじゃないか」という恐怖心があるので、反応一つ一つを気にしてしまう。
返事や返信が無いだけで、
「あ、嫌なこと言った(した)のかな」
って思ってしまう。
気にしなくて済む人もいるけれど、それでもやっぱり何処かで不安に思っている。安心出来ない。
誰でもそんなもんなのかな。
「そんなんじゃ気が保たないでしょ・・・」と呆れられますが、
気は保てていません(苦笑)。いつもギリギリですから;
でもま、自分が身を退けば全て解決なので(苦笑)。
逃げてるだけなのかもしれないけどね。
自分に贈りたい一言。
「忍耐という字を噛締めてみろ」
逃げるしか脳のない自分がいることは事実です。
サヨナラを言える日が来るよう、努力します。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
画像をバックにupする為の作業だけで軽く一時間程格闘していた幸村です。
とっても大変な一日だったように感じるのは、ひたすらテンプレートを改良していたからでしょうか。慣れない事を一人で根詰めてやるのは楽しいけれど、苦しい・・・。
時折癇癪を起こしたりしてしまうのでございます。
でもね、「キィィーッ!!」って叫んだ(?)後に深呼吸を一つすると
「よっし!もう一回っ!!」って仕切り直せるのが幸村の癇癪(笑)
結構単純。
今日は、新たに背景をアレンジしてみました。
「このblog、まだまだ幸村色になってねえんだよな・・・」
と思っていたこともあるし、
今夜を越えると一ヶ月間PCでの更新が出来なくなるから何とか今日中に新しくしておきたかった。
書き込みの更新は携帯電話から出来ると思うので、書ける事は書いていきますが、ひょっとすると一ヶ月ほど、亀の御散歩状態の更新になるやもしれませぬ。定かではないのだけれど。
でも、極力頑張るから覗きに来て下さい。
写真素材は「Sky Ruins」さんからお借りしました。
フリースペースにリンクを貼っておきます。
このサイトさんは、素敵な写真が満載だ・・・!!説明するより行く方が早いだろうよ。
ボクは空が好きだけど、空なら何でもいい訳じゃなくてね。
好みの写真が中々見つからないんだけど、このサイトさんのアングルや加工は好き。
色に対しても好き嫌いがはっきりしている幸村は、気に入る素材を扱っているところをキャッチ出来ない・・・。
アングルやバランスが良くても色付きでパスとか、その逆とか。
色々とサイトは廻っているんだけども・・「うぅ~ん・・・」って小首を傾げるくらいの満足度しかないところが多いのね。
ここは、幸村の数少ないお気に入り素材屋さんデス。
いつか自身のHPを創設した際には、きっととっても御世話になるだろうな~って思います。
本日、
背景画像を登録する方法を知らないまま一所懸命テンプレートを保存保存ってしてました・・・。
何度やっても画像が反映されず、泣きべそかきそうになり始めた頃、編集のページ最上部に
「画像のアップロード」
というボタンを発見。←白哉兄様以外に対しては節穴に近い幸村の双眸。
「・・・・確か、記事やプラグインに画像をupするにも一度『あっぷろーど』ってやつしたよな・・・?」
ってことで、兎に角順番は適当に参照やらFILEやらに画像を表示させてポチポチポチポチアップロードなるを押していた。
エラーばっかで全然更新できなかったり、
マイクロソフトの応答が一切無くなって頭からやり直すことを余儀なくされたり(これはすんごい数だった・・・今日時間かかったのは100%これのせいだゼ・・・くそぅ、マイクロソフトのエラーめ・・・)
ホップアップ?が一時解除されたとか、一切のホップアップがどうのこうので修正ページに入れなかったり・・・
踏んだり蹴ったりだよねー・・・・。
馬の後ろ足で蹴り飛ばされたような哀しさを感じるヨ。
blogを始めた先月頭からインターネットを始めたのね。知識も用語も何も蓄えが無い所為で、かなり苦戦しているけれど・・
それでも、自分のblogをもっともっと幸村色にしていきたくて日々奮闘してしまう。
だって、一人でもここを覗きに来てくれる人が居るなら
その人がここで過ごした時間を無駄にさせたく無いから。
あとは、
自分には満足のてっぺんと満足に被せてあげる蓋がないから。
「ここまできた」
じゃなくて
「ここからだな~」「まだまだだな・・・」
っていつもいつも思う。思うようにしている、とも言える。
満足出来てないって理由一つで上を目指してる訳じゃないよ。
もっともっと求めるものが沢山あるから、同じ場所にはいたくないだけ。
「進化しないなんて生きてる意味が無い」と思ってるから、いつも上を見てる。
何度も言ってるけど、自分を変えられるのは自分だけってボクは思ってるから向上心を削るものは禁忌なんだよね。
でも正直言うと、満足を得ることに多大なる恐怖を持っている。
「『これで良し!!』って思ってしまうと、ダメになる」
そんな強迫観念に囚われているから、無意識に「満足しちゃいけない」って思ってるんだ。
それはもう中学の時からあった。
自分を奮い立たせるのに一役買ってる時と、
どれだけ「頑張ったね」「良かったよ」って褒められても自分はこれっぽっちも満足出来ないっていう原因になってる時がある。
笑ってても、内心は自分の結果に対して冷めてることはよくある。
高校生の時、親友に言われた言葉が今も残ってる。
「貴女は理想が高いんだよ。
だから一般的に見るとすごく良い結果が出ても、玖月はもっともっとその先を目指しているから、求めているから、いつも自分の結果に満足出来ないんだよ。
いつも前を向いてるって感じ」
理想が高いなんて思ってもみなかったから、その時はただ驚いてばかりだったけど、よくよく考えてみれば「そうかもな~」って納得出来た。
理想を思い描いて酔ってるだけじゃ、何の意味も無い。
満足出来ないっつって生きることを放棄してるのは勿体無い。
一度きりなんだからね。ボク等の人生は。
同じ時間は二つとない。
八月四日と名づけられた時間は毎年やってくるけれど、どれも別モノじゃん。
だって、二十歳の八月四日はそれしかないんだよ?
十五歳の夏も、三十歳の中秋の名月も、何もかもが一度きりなんだ。
毎日毎日、生きている事が当たり前と思ってるとさ、時間なんて次から次へと湧いて出るようなものだと思いがちだよね。
求めなくても過ぎていくから、ぼぉ~っとしてても過ごせる。
時間に果ては無いような気になる。
明日も明後日も同じ日常があって仕事なり学業なりに勤める。調子が悪い人なら治療に専念する生活が続く。
代わり映えしない日々が、時間はありふれてるって錯覚を覚えさせるんだ。
慣れた生活が、時間に対する敏感さを奪っていく。
日々の営みにマンネリ化してしまうのは自分の責任だから、その敏感さを奪っているのは自身の危惧の低さでもある。
一日一日を、一瞬をも一生懸命生きている人はそんなこと思いもしないみたい。ちゃんと果てを見つめてるし、意識してる。
自分が如何に生きようとするのかを真剣に考えないと気づけないことだと思う。成り行きや行き当たりで生きていると、決して気づけないこと。
満足してない人生を送ってる人なんて腐らせても足りないくらい居るんじゃないかと思う。
「思う通りの人生、過ごせてますか?」って質問に間髪入れず「はい」って答えられる人は少ないんじゃないかな。
皆、何かしら改善させたい部分はあると思う。
でも、それを何とかさせようと真剣に悩む人は少ないみたい。実行に移す人が少ない気がする。
「え~?別にいいよー。どうせアタシなんか・・」とか何とかぼやいて御終いにさせてしまう人が多い。
満足してないけど、満足することを求めない人達。
改善させる意思がないのか・・・?と思える人もいる。
折角の人生なんだからさ、もっと貪欲にいかなきゃ損だよ!!
自分の人生、自分が楽しんで生きて何ぼだもん。
自分が幸せと思える人生にして何ぼ。
周囲との関係や自身の立場は自由を制限する枷になってるだろうけど、二十四時間三百六十五日それに繋がれてる訳じゃないから、言い訳には出来ないと思う。
幸せが何なのか、なんて個人の意識の中でしか決められないから皆それぞれ違う。
他人に合わせる必要はないし、合わせてもらう必要もない。
自分がこうだと思うならそれを信じるしかないと思う。
本当に大事にしたいものなら、護る為に傷ついても気にはならないもんだし。
幸せになるのも楽しむのも、自分の向上心次第ですよ。
現状に胡坐をかかず、高みを求めて精進する。
口先だけなら幾らでも言えるけど、実践するのは忍耐やら努力やら他にも色々と必要になるから難しいよねー。
でも、それを疎かにした者に実りは見込めないからやらないとね。
あ~あ。
最近は纏まらない話が多いなぁ・・・。
画像をバックにupする為の作業だけで軽く一時間程格闘していた幸村です。
とっても大変な一日だったように感じるのは、ひたすらテンプレートを改良していたからでしょうか。慣れない事を一人で根詰めてやるのは楽しいけれど、苦しい・・・。
時折癇癪を起こしたりしてしまうのでございます。
でもね、「キィィーッ!!」って叫んだ(?)後に深呼吸を一つすると
「よっし!もう一回っ!!」って仕切り直せるのが幸村の癇癪(笑)
結構単純。
今日は、新たに背景をアレンジしてみました。
「このblog、まだまだ幸村色になってねえんだよな・・・」
と思っていたこともあるし、
今夜を越えると一ヶ月間PCでの更新が出来なくなるから何とか今日中に新しくしておきたかった。
書き込みの更新は携帯電話から出来ると思うので、書ける事は書いていきますが、ひょっとすると一ヶ月ほど、亀の御散歩状態の更新になるやもしれませぬ。定かではないのだけれど。
でも、極力頑張るから覗きに来て下さい。
写真素材は「Sky Ruins」さんからお借りしました。
フリースペースにリンクを貼っておきます。
このサイトさんは、素敵な写真が満載だ・・・!!説明するより行く方が早いだろうよ。
ボクは空が好きだけど、空なら何でもいい訳じゃなくてね。
好みの写真が中々見つからないんだけど、このサイトさんのアングルや加工は好き。
色に対しても好き嫌いがはっきりしている幸村は、気に入る素材を扱っているところをキャッチ出来ない・・・。
アングルやバランスが良くても色付きでパスとか、その逆とか。
色々とサイトは廻っているんだけども・・「うぅ~ん・・・」って小首を傾げるくらいの満足度しかないところが多いのね。
ここは、幸村の数少ないお気に入り素材屋さんデス。
いつか自身のHPを創設した際には、きっととっても御世話になるだろうな~って思います。
本日、
背景画像を登録する方法を知らないまま一所懸命テンプレートを保存保存ってしてました・・・。
何度やっても画像が反映されず、泣きべそかきそうになり始めた頃、編集のページ最上部に
「画像のアップロード」
というボタンを発見。←白哉兄様以外に対しては節穴に近い幸村の双眸。
「・・・・確か、記事やプラグインに画像をupするにも一度『あっぷろーど』ってやつしたよな・・・?」
ってことで、兎に角順番は適当に参照やらFILEやらに画像を表示させてポチポチポチポチアップロードなるを押していた。
エラーばっかで全然更新できなかったり、
マイクロソフトの応答が一切無くなって頭からやり直すことを余儀なくされたり(これはすんごい数だった・・・今日時間かかったのは100%これのせいだゼ・・・くそぅ、マイクロソフトのエラーめ・・・)
ホップアップ?が一時解除されたとか、一切のホップアップがどうのこうので修正ページに入れなかったり・・・
踏んだり蹴ったりだよねー・・・・。
馬の後ろ足で蹴り飛ばされたような哀しさを感じるヨ。
blogを始めた先月頭からインターネットを始めたのね。知識も用語も何も蓄えが無い所為で、かなり苦戦しているけれど・・
それでも、自分のblogをもっともっと幸村色にしていきたくて日々奮闘してしまう。
だって、一人でもここを覗きに来てくれる人が居るなら
その人がここで過ごした時間を無駄にさせたく無いから。
あとは、
自分には満足のてっぺんと満足に被せてあげる蓋がないから。
「ここまできた」
じゃなくて
「ここからだな~」「まだまだだな・・・」
っていつもいつも思う。思うようにしている、とも言える。
満足出来てないって理由一つで上を目指してる訳じゃないよ。
もっともっと求めるものが沢山あるから、同じ場所にはいたくないだけ。
「進化しないなんて生きてる意味が無い」と思ってるから、いつも上を見てる。
何度も言ってるけど、自分を変えられるのは自分だけってボクは思ってるから向上心を削るものは禁忌なんだよね。
でも正直言うと、満足を得ることに多大なる恐怖を持っている。
「『これで良し!!』って思ってしまうと、ダメになる」
そんな強迫観念に囚われているから、無意識に「満足しちゃいけない」って思ってるんだ。
それはもう中学の時からあった。
自分を奮い立たせるのに一役買ってる時と、
どれだけ「頑張ったね」「良かったよ」って褒められても自分はこれっぽっちも満足出来ないっていう原因になってる時がある。
笑ってても、内心は自分の結果に対して冷めてることはよくある。
高校生の時、親友に言われた言葉が今も残ってる。
「貴女は理想が高いんだよ。
だから一般的に見るとすごく良い結果が出ても、玖月はもっともっとその先を目指しているから、求めているから、いつも自分の結果に満足出来ないんだよ。
いつも前を向いてるって感じ」
理想が高いなんて思ってもみなかったから、その時はただ驚いてばかりだったけど、よくよく考えてみれば「そうかもな~」って納得出来た。
理想を思い描いて酔ってるだけじゃ、何の意味も無い。
満足出来ないっつって生きることを放棄してるのは勿体無い。
一度きりなんだからね。ボク等の人生は。
同じ時間は二つとない。
八月四日と名づけられた時間は毎年やってくるけれど、どれも別モノじゃん。
だって、二十歳の八月四日はそれしかないんだよ?
十五歳の夏も、三十歳の中秋の名月も、何もかもが一度きりなんだ。
毎日毎日、生きている事が当たり前と思ってるとさ、時間なんて次から次へと湧いて出るようなものだと思いがちだよね。
求めなくても過ぎていくから、ぼぉ~っとしてても過ごせる。
時間に果ては無いような気になる。
明日も明後日も同じ日常があって仕事なり学業なりに勤める。調子が悪い人なら治療に専念する生活が続く。
代わり映えしない日々が、時間はありふれてるって錯覚を覚えさせるんだ。
慣れた生活が、時間に対する敏感さを奪っていく。
日々の営みにマンネリ化してしまうのは自分の責任だから、その敏感さを奪っているのは自身の危惧の低さでもある。
一日一日を、一瞬をも一生懸命生きている人はそんなこと思いもしないみたい。ちゃんと果てを見つめてるし、意識してる。
自分が如何に生きようとするのかを真剣に考えないと気づけないことだと思う。成り行きや行き当たりで生きていると、決して気づけないこと。
満足してない人生を送ってる人なんて腐らせても足りないくらい居るんじゃないかと思う。
「思う通りの人生、過ごせてますか?」って質問に間髪入れず「はい」って答えられる人は少ないんじゃないかな。
皆、何かしら改善させたい部分はあると思う。
でも、それを何とかさせようと真剣に悩む人は少ないみたい。実行に移す人が少ない気がする。
「え~?別にいいよー。どうせアタシなんか・・」とか何とかぼやいて御終いにさせてしまう人が多い。
満足してないけど、満足することを求めない人達。
改善させる意思がないのか・・・?と思える人もいる。
折角の人生なんだからさ、もっと貪欲にいかなきゃ損だよ!!
自分の人生、自分が楽しんで生きて何ぼだもん。
自分が幸せと思える人生にして何ぼ。
周囲との関係や自身の立場は自由を制限する枷になってるだろうけど、二十四時間三百六十五日それに繋がれてる訳じゃないから、言い訳には出来ないと思う。
幸せが何なのか、なんて個人の意識の中でしか決められないから皆それぞれ違う。
他人に合わせる必要はないし、合わせてもらう必要もない。
自分がこうだと思うならそれを信じるしかないと思う。
本当に大事にしたいものなら、護る為に傷ついても気にはならないもんだし。
幸せになるのも楽しむのも、自分の向上心次第ですよ。
現状に胡坐をかかず、高みを求めて精進する。
口先だけなら幾らでも言えるけど、実践するのは忍耐やら努力やら他にも色々と必要になるから難しいよねー。
でも、それを疎かにした者に実りは見込めないからやらないとね。
あ~あ。
最近は纏まらない話が多いなぁ・・・。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
先週までは全く蝉の合唱が耳に入らなかったのに、昨日家を出た瞬間にその声を浴びた幸村です。
すごかったなぁ。一年振りに聞くと感慨深いです。
「おっ!夏だな!!」
って、胸がウキウキしちゃった。
網戸に蝉さんが張り付いていた時も夏を感じましたが、やはり合唱となるとインパクトが違いますね。
突然の雷雨や色濃くなった影も充分夏の訪れを感じさせますが、最後にはやはり蝉の声。これがないとね!
しかし、昨夜は随分と秋っぽい夜でした。
蒸し暑さは梅雨にも劣りませんでしたが、何となく、肌を撫でる風と周囲の空気がさらりとしていて不気味だった。
今も、部屋を抜ける風がひんやりとしています。雨上がりだから・・・?いやそんなんじゃあないと思います。雨降ってないし。
・・・ここ数年、まともな季節ってないからなあ。どれもこれも何だかおかしい。
そのうち四季が有耶無耶になってしまうのではないかと、心穏やかではありません。
平安時代はこんなんじゃなかったんだろうな。
もっともっとどの季節も清清しくて、夏もこんなに不快じゃなかったと思う。
冬は今よりずっと寒かっただろうから、しのぐのは辛いけど・・・。秋の月は想像出来ないほど美しかっただろうな。
空気が違うんだもの。眼に映るものの色合いは全然違うと思う。夜空の色も違うんだろうな。
空には一切区画もない。電線が張り巡らされていないんだ、何処までも遠く一面のみの空が広がっている。
プロフィールにもありますが、幸村は平安時代が好き。
平安時代の何もかもがとても懐かしく思われます。
中学生の時だったかな。ふと気づいたことに涙が止まらなくなった。
「・・・・あぁ、ボクは平安時代にはいけないんだな」と。
そんなこと、気づくも何も当然のことです。それまでだって分かってた。
でも本当の意味で理解した瞬間、胸が引き裂かれるような思いで居た堪れなくなってしまった。自分がその場に行けないことがこんなにも辛いことだなんて思いもしなかった。
一千年前の日本が、本当はどんなものだったのか。この眼で確かめることは叶わない。
資料集に代表される平安時代って、京の都、特に平安京は内裏などが殆どです。一見優雅に思えますが全国津々浦々一様である筈がない。平民達の暮らし振りとかも見てみたいんだけどな・・・。
平安の昔、そこでワタシは男だったと思います。幾つか数は踏んでるでしょうけど、前世の一つがそれだと思う。あくまで自己判断ですが。
殿方の衣装を始め、彼等の機微も含めて全てが懐かしくて懐かしくて・・・物狂いになりそうなくらいです。
平安時代を始め電気の無い生活って、憧れます。(そして無性に懐かしい。)
だって、夜は蝋燭や油の火で過ごすんですよ!こんなに素敵な宵の過ごし方はありません。
星空が冴え渡り月影が屋敷の何処までものびる。そんな中、几帳越しに人と面会するとドキドキしてしまいます。
無駄な音が一切無く、それぞれの季節の中で鼓動を持つものと実態をもたないものたちが共存している。
冷蔵庫やレンジがないのがその時代の常ですから、そこで生きていれば困ることもありません。今突然に全ての電力が落ちれば人間は文明の殆どを失いかねませんが、その昔は電気のない生活をしていたんですからやって出来ないことはない。
地球存続の危機がどーたらこーたら言ってるなら、少しづつ昔の生活に戻していけばいいのにって、中学の頃から思ってました。
「そんなの無理無理」って言ってしまえばそれで御終い。
頭つかってくださいよ。飾りじゃないんだから。
今の生活が地球にも人間にも合っていない。ならば、先達の行いを実行すればいいんですよ。
どこか一つのパーツを動かせば、自然とその周りにあるパーツをそれに合わせて動かさないといけなくなる。そうやって時間をかけて一個一個変えていくしか方法はありません。一瞬で全てに変化をもたらせるなら、人間は今こんなに悩んでません。
一つづつでも変えていけるなら行動に移さないと勿体無い。難しく考えることはありませんよ。最終的に全てが変容を遂げていればそれで成功なんです。
結果の良し悪しは無論大切ですが。
平安時代の生活、ワタシは日本人に一番適したものだと思うんですがねえ・・・。
何もあれ程のんびり生きろと言っている訳では御座いませんよ。生活の仕方をそれにしたら温暖化やら何やらの対策になるんじゃないかなって。
ほら、家の中でクーラー使わないし、車使わないし、道は一切が土ですからヒートアイランドなんて起こらない。家屋は木造ですから壁が熱をもって反射熱を放つこともない。そしたら気温以上に夏は暑くなりません。
電化製品がないから冬は確かに寒いけど、着物着てるから実際それ程感じない。
温水器がないしガスもないから「風呂だ!!」っつっても直ぐに入れませんが、御湯が沸くまで待った分入った時の充足感は格別です。
さっきも言いましたが夜は蝋燭の明かりだけだから月明かりが綺麗だし、空に電光が広がらないから星だってよく見える。
蝋燭の火って、結構な光を放ちます。家の中で行動する程度なら何の支障もありません。
いいなぁ・・・そんな生活。その中に身を置けない自分の境遇をどれだけ悲しんだか数知れません。
現代人は、殊日本人は「新しいもの」ばかりを求めていますが、必ずやそこに価値あるものが見つかるとは限りません。
自分達が捨ててきた数え切れない伝統や歴史の方が、比べ物にならないほど大事ってことがある。
いい加減、気づかなきゃいけないと思います。
新しく生み出されるものに然程の満足を得ていないことにも。
サイクルが速まってますよね。流行なんてとくに。それって、要するに直ぐ飽きるってことでしょう?
新しく生み出されたものに対する興味が長続きしない。
本当の意味で気に入ってない、満足してないからじゃないんですか?
周りに合わせてるだけって人もいるでしょうが、例えそうであっても、気に入ったものがあれば大事にするはずです。
新しいものならば満足できるという時代は、当の昔に消えていると思います。
人間は、いつまでも同じ要領で楽しみを味わえない生き物ですから。
新しいものを求めることのみに囚われていては、限界はすぐそこにあると思います。
こんなに素晴らしい先達の歴史と行いがあるんだから、そこに眼を向けてみて下さい。現代に生み出される新しいものなんか比ではない素敵なものが、幾らでもあります。
伝統を守れと強要している訳ではなく(ボクは伝統を守っていきたいと思ってますが)
「昔のものにしかない価値を見る眼を養ってほしい」ということです。
皆と同じ視線に立っていては、自分にとって必要なものは見えてきません。
自分は自分の見るべきものを見ないと。
所詮自分以外は他人です。考えも見方も違う。それに合わせることが相手にとっていいと思っているなら、その考えは直ぐに捨てた方がいいでしょう。
相手にも自分にも不利益なことをしている。
自分は、真に必要なものを見つめる機会を逃している。
相手にとっては、違う視点と意見を得る人材を一つ失わせています。
相手にとって、自分は一つの別個体、意識をもつものだということを認識していない証拠です。
「他人の前でどれだけ自分が意味をもてているのか」、それを念頭において生きていかないと流されます。
自分の意味は自分でつけてやらないと。誰も与えてくれるものではありませんから。
何となくでも立ち位置さえ掴めれば、方向性だって見えてくる。一つのものから世界が広がることはよくあります。
周りに巻き込まれて同じ方向見てたんじゃ、勿体無いですよ?
周囲に倣って前にあるものを捕らえに行くのがイマイチだなって思うなら、振り向いてみればいいんじゃないかな。
ずっと気づけずにいたものが沢山あると思います。
昔のものを振り返る機会、見つけてみてください。
幸村は、オススメします。
先週までは全く蝉の合唱が耳に入らなかったのに、昨日家を出た瞬間にその声を浴びた幸村です。
すごかったなぁ。一年振りに聞くと感慨深いです。
「おっ!夏だな!!」
って、胸がウキウキしちゃった。
網戸に蝉さんが張り付いていた時も夏を感じましたが、やはり合唱となるとインパクトが違いますね。
突然の雷雨や色濃くなった影も充分夏の訪れを感じさせますが、最後にはやはり蝉の声。これがないとね!
しかし、昨夜は随分と秋っぽい夜でした。
蒸し暑さは梅雨にも劣りませんでしたが、何となく、肌を撫でる風と周囲の空気がさらりとしていて不気味だった。
今も、部屋を抜ける風がひんやりとしています。雨上がりだから・・・?いやそんなんじゃあないと思います。雨降ってないし。
・・・ここ数年、まともな季節ってないからなあ。どれもこれも何だかおかしい。
そのうち四季が有耶無耶になってしまうのではないかと、心穏やかではありません。
平安時代はこんなんじゃなかったんだろうな。
もっともっとどの季節も清清しくて、夏もこんなに不快じゃなかったと思う。
冬は今よりずっと寒かっただろうから、しのぐのは辛いけど・・・。秋の月は想像出来ないほど美しかっただろうな。
空気が違うんだもの。眼に映るものの色合いは全然違うと思う。夜空の色も違うんだろうな。
空には一切区画もない。電線が張り巡らされていないんだ、何処までも遠く一面のみの空が広がっている。
プロフィールにもありますが、幸村は平安時代が好き。
平安時代の何もかもがとても懐かしく思われます。
中学生の時だったかな。ふと気づいたことに涙が止まらなくなった。
「・・・・あぁ、ボクは平安時代にはいけないんだな」と。
そんなこと、気づくも何も当然のことです。それまでだって分かってた。
でも本当の意味で理解した瞬間、胸が引き裂かれるような思いで居た堪れなくなってしまった。自分がその場に行けないことがこんなにも辛いことだなんて思いもしなかった。
一千年前の日本が、本当はどんなものだったのか。この眼で確かめることは叶わない。
資料集に代表される平安時代って、京の都、特に平安京は内裏などが殆どです。一見優雅に思えますが全国津々浦々一様である筈がない。平民達の暮らし振りとかも見てみたいんだけどな・・・。
平安の昔、そこでワタシは男だったと思います。幾つか数は踏んでるでしょうけど、前世の一つがそれだと思う。あくまで自己判断ですが。
殿方の衣装を始め、彼等の機微も含めて全てが懐かしくて懐かしくて・・・物狂いになりそうなくらいです。
平安時代を始め電気の無い生活って、憧れます。(そして無性に懐かしい。)
だって、夜は蝋燭や油の火で過ごすんですよ!こんなに素敵な宵の過ごし方はありません。
星空が冴え渡り月影が屋敷の何処までものびる。そんな中、几帳越しに人と面会するとドキドキしてしまいます。
無駄な音が一切無く、それぞれの季節の中で鼓動を持つものと実態をもたないものたちが共存している。
冷蔵庫やレンジがないのがその時代の常ですから、そこで生きていれば困ることもありません。今突然に全ての電力が落ちれば人間は文明の殆どを失いかねませんが、その昔は電気のない生活をしていたんですからやって出来ないことはない。
地球存続の危機がどーたらこーたら言ってるなら、少しづつ昔の生活に戻していけばいいのにって、中学の頃から思ってました。
「そんなの無理無理」って言ってしまえばそれで御終い。
頭つかってくださいよ。飾りじゃないんだから。
今の生活が地球にも人間にも合っていない。ならば、先達の行いを実行すればいいんですよ。
どこか一つのパーツを動かせば、自然とその周りにあるパーツをそれに合わせて動かさないといけなくなる。そうやって時間をかけて一個一個変えていくしか方法はありません。一瞬で全てに変化をもたらせるなら、人間は今こんなに悩んでません。
一つづつでも変えていけるなら行動に移さないと勿体無い。難しく考えることはありませんよ。最終的に全てが変容を遂げていればそれで成功なんです。
結果の良し悪しは無論大切ですが。
平安時代の生活、ワタシは日本人に一番適したものだと思うんですがねえ・・・。
何もあれ程のんびり生きろと言っている訳では御座いませんよ。生活の仕方をそれにしたら温暖化やら何やらの対策になるんじゃないかなって。
ほら、家の中でクーラー使わないし、車使わないし、道は一切が土ですからヒートアイランドなんて起こらない。家屋は木造ですから壁が熱をもって反射熱を放つこともない。そしたら気温以上に夏は暑くなりません。
電化製品がないから冬は確かに寒いけど、着物着てるから実際それ程感じない。
温水器がないしガスもないから「風呂だ!!」っつっても直ぐに入れませんが、御湯が沸くまで待った分入った時の充足感は格別です。
さっきも言いましたが夜は蝋燭の明かりだけだから月明かりが綺麗だし、空に電光が広がらないから星だってよく見える。
蝋燭の火って、結構な光を放ちます。家の中で行動する程度なら何の支障もありません。
いいなぁ・・・そんな生活。その中に身を置けない自分の境遇をどれだけ悲しんだか数知れません。
現代人は、殊日本人は「新しいもの」ばかりを求めていますが、必ずやそこに価値あるものが見つかるとは限りません。
自分達が捨ててきた数え切れない伝統や歴史の方が、比べ物にならないほど大事ってことがある。
いい加減、気づかなきゃいけないと思います。
新しく生み出されるものに然程の満足を得ていないことにも。
サイクルが速まってますよね。流行なんてとくに。それって、要するに直ぐ飽きるってことでしょう?
新しく生み出されたものに対する興味が長続きしない。
本当の意味で気に入ってない、満足してないからじゃないんですか?
周りに合わせてるだけって人もいるでしょうが、例えそうであっても、気に入ったものがあれば大事にするはずです。
新しいものならば満足できるという時代は、当の昔に消えていると思います。
人間は、いつまでも同じ要領で楽しみを味わえない生き物ですから。
新しいものを求めることのみに囚われていては、限界はすぐそこにあると思います。
こんなに素晴らしい先達の歴史と行いがあるんだから、そこに眼を向けてみて下さい。現代に生み出される新しいものなんか比ではない素敵なものが、幾らでもあります。
伝統を守れと強要している訳ではなく(ボクは伝統を守っていきたいと思ってますが)
「昔のものにしかない価値を見る眼を養ってほしい」ということです。
皆と同じ視線に立っていては、自分にとって必要なものは見えてきません。
自分は自分の見るべきものを見ないと。
所詮自分以外は他人です。考えも見方も違う。それに合わせることが相手にとっていいと思っているなら、その考えは直ぐに捨てた方がいいでしょう。
相手にも自分にも不利益なことをしている。
自分は、真に必要なものを見つめる機会を逃している。
相手にとっては、違う視点と意見を得る人材を一つ失わせています。
相手にとって、自分は一つの別個体、意識をもつものだということを認識していない証拠です。
「他人の前でどれだけ自分が意味をもてているのか」、それを念頭において生きていかないと流されます。
自分の意味は自分でつけてやらないと。誰も与えてくれるものではありませんから。
何となくでも立ち位置さえ掴めれば、方向性だって見えてくる。一つのものから世界が広がることはよくあります。
周りに巻き込まれて同じ方向見てたんじゃ、勿体無いですよ?
周囲に倣って前にあるものを捕らえに行くのがイマイチだなって思うなら、振り向いてみればいいんじゃないかな。
ずっと気づけずにいたものが沢山あると思います。
昔のものを振り返る機会、見つけてみてください。
幸村は、オススメします。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
この頃コンポの調子がよろしくありません。MD機能に関してのみですが。
MDをかけていると途端に動かなくなったり、音が跳んで跳んで何を言っているのか分からない再生状態になったり。
不調の原因は酷使です。ええそうですとも余りにワタシがこの子を使い過ぎるんです。
何てったてほぼ二十四時間かけているから・・・。
眼が覚めたら即ポチッと再生。
家を出る時は電源を切りますが、帰宅後すぐにポチッと再生。
寝ている時もずぅーっと再生・・・。
兎に角在宅中は延々とMDをかけているからこの子も相当疲れているのでしょう。そんな風に酷使され始めて約三年。
音が良くないので高音質のコンポを買いたいのですがねぇ。如何せんお金がついていかない・・・。コンポを買うより必要なものが多くて中々そちらまでお金が回りません。
物要りってホント一気にやってくる。
新年度とか新年とかは夢に逃げ込みたい程痛感します・・・ふふ(嘆息)
そう言えばコンポでドラマを聴いているのでTVをつける事は殆どないなあ。世の中の動向も全く分からない。どんなものが流行っているのかなんて尚分からない。
ニュースも見てないよ・・。ここまでくると世間的視野ではダメな人扱いされてしまうんだけども。
「世の中を知らずして生きてゆけるか!」って喝を入れられそうだよね。
それでも自分の周りは代わり映えなく時間を重ねていくんです。
足を踏み入れたことも無い、空気を吸ったことも無い遠い他国の動向を知らなくたって。
自国を脅かす狂気を知らぬままでも。
自分の時間は回り続け、そして二度とは戻らない。
この時代です、世界中と言わずとも自国の情報を収集して生活していく事は当然とされている。そりゃ何でも入手できるもんね。インターネットでも携帯電話でも、何かに繋がってない方が少ない。でも、そこに自分の欲しいものがあることって少ないんだよね。自分が本当に求めるものって、そう容易く手に入らない。手に入れた気になってるだけとか、勘違いが多い。
ある程度世の中に合わせて生きていかなきゃいけないから、外部の情報を手に入れるのは不可欠だけど、それが自分に何をもたらすのかを知らないと意味が無い。
他人に唆されてとる行動で生み出されたものは、後に何も残らない。残さない。
時が経てば、あったことすら思い出せなくなるものです。
自分を成長させる為に必要なのは他人から与えられたものではなく、自分自身で見つけた何か。
無論、人からきっかけを貰う事は大事です。それが無いと気づけるものも気づけない。
ただ、預けられた見知らぬ鍵を手に握っているだけ、見つめているだけでは、何の変化も訪れません。何処にあるのか分からない箱、扉・・・何かを開くためにあるそれの役目を果たしてやらないと。
手渡された鍵に合う鍵穴を持つものを探すこと、見つけること、それが一番大切だと思うの。
例え目に見えない変化であっても、ずっと先では力になる。
ボクはそう信じてるから、「気づく」という行為を大切にしてる。
だって、一つ気づいただけでそれまで見ていた世界が変わるんだ。その小さな発見で人の一生もガラリと変わる。閃きや直感が時として多大なる力を発揮するように、気づくことも計り知れないものをもたらすきっかけになる。
一瞬一瞬を大事に生きている人ほど輝いて見えるのは、色んなことに気づいて日々を重ねているからだと思うんだ。そんな人達は小さな物事にも素直に喜んだり驚いたり出来る。
そこにある違いは単純なもので、
眼の前の世界を当然として捉えるか、不思議として見るか。
結局、世界は二択で出来ているんじゃないかと思う。
生きるか死ぬか。
喰うか喰われるか。
行動するかしないか。
好きか嫌いか。
出来るか出来ないか。
当たり前か不思議か。
偶然か必然か。
気づくか、気づかないか。
他にももっと。何もかも。
自分の人生が退屈かどうかの判断は自分にしか出来ない。つまらないと思っているなら、何かを変えるしかないじゃん。そこに気づけるかどうか。
変えなきゃいけないと分かっているけど、行動に起こせないでいる。そこで、諦めるのか踠くのか。選択できるのは二つに一つ。
ボクが見つめる輝いている人達は、我知らずそれを心得ていて二者択一を実行している方ばかり。自分の求めるものを見失わずに、目的を果たして目標に向う。
方向を誤らない為に立てたある人の誓いに、自分の甘さを思い知らされた事だってある。でも、誰もが彼等のように強く信念を貫けるとは思ってないよ。心が弱い人、強い人は存在するからね。
ただ、何だかんだ言って御託を並べても、最後に辿り着くのは「諦めない」っていう想いを大切にしているかどうかだと思う。
「自分は弱いから」
って言ってるだけじゃ何も変わらないし変えられないことは、皆分かってるんでしょ。そこで止まっちゃいけないんだよ。
「じゃあ、どうすればいい?」
この言葉に進まないと、何も始まらない。
「自分は弱い。じゃあ、どうすれば変われるのかな」って。
「別に変わらなくていい」って言う人には、何も言わない。
その人が選んだんだ。ボクがどうこう言う必要も権利もない。
他人が見るとどんなに価値の無いものでも、自分が大事だと思うなら守り通さないといけない。痛みを伴わずに新しく生まれ変われることなんてありはしない。
変わりたいと本当に願っているなら、次を見つけないといけないことにもう気づいている筈なんだ。見てみぬ振りをしているだけでしょう?
「やったってどうせ意味ないよ」とか「自分なんか無理に決まってる」とか、
「諦めてる振り」をして逃げてるだけなんだ。
ボクはずっとそうだった。
でも、そこに僅かでも嫌悪を感じているのなら、逃げちゃいけないと思う。だって、本当はそれを望んでないってことでしょ?
「逃げない」ことを見つめる時、必要なのは「諦めない」という覚悟。踏み出す勇気なんて、その後に必要なものだ。
覚悟を決めたから、前に進む決意が出来る。決断を下したから、踏み出す勇気が生まれる。
諦めるのか諦めないのか。
諦めきれるのか、諦めきれないのか。
分かってる筈だよ。
答えを出さないといけない時は必ずくる。
その時、それまで、
逃げ続けるのか立ち向かうのか。
自分が一番大切にしたいものを見つけられたら、それに気づけたら、自ずと動き始めるものがある。
それと同時に訪れる岐路もある。
でも、覚悟があれば乗り越えられることもある。これに気づけた時、ボクはとても楽になれた。
何だかんだ偉そうに言ってるけど、これは全てボクの自論だから同意出来ない人がいて当然だし、ボクの事例が万人に当て嵌まるとは限らない。
つまるところ、自分のことを変えていくにはやっぱり何者にも譲れないものを自分で見つけていくしかないんだろうなぁ。
・・・・それにしても長いな。もう二時半まわってるし・・何時間掛かってるんだろう・・。やっぱり文章書くの遅いよなー・・・。
言葉を選ぶのに時間がかかるんだよね。自分の発した言葉には責任があるし。安易には書き殴れない。
くそ・・・今日は徹夜で体験学習行きか?←今から「陰陽師」DVDを観ようかな、とか思っている。
挑戦してみるか・・?でも声が出ないと困るんだよね~。
まぁいいや。後で考えよう。
そんな感じで、今宵の記事は、やけに纏まりのない幸村の自論で御座いました。
もう一度断っておきますが、これはあくまで幸村の意見。正しい、正しくないを訴求するつもりは御座いませぬ故。
それではこれにて。
この頃コンポの調子がよろしくありません。MD機能に関してのみですが。
MDをかけていると途端に動かなくなったり、音が跳んで跳んで何を言っているのか分からない再生状態になったり。
不調の原因は酷使です。ええそうですとも余りにワタシがこの子を使い過ぎるんです。
何てったてほぼ二十四時間かけているから・・・。
眼が覚めたら即ポチッと再生。
家を出る時は電源を切りますが、帰宅後すぐにポチッと再生。
寝ている時もずぅーっと再生・・・。
兎に角在宅中は延々とMDをかけているからこの子も相当疲れているのでしょう。そんな風に酷使され始めて約三年。
音が良くないので高音質のコンポを買いたいのですがねぇ。如何せんお金がついていかない・・・。コンポを買うより必要なものが多くて中々そちらまでお金が回りません。
物要りってホント一気にやってくる。
新年度とか新年とかは夢に逃げ込みたい程痛感します・・・ふふ(嘆息)
そう言えばコンポでドラマを聴いているのでTVをつける事は殆どないなあ。世の中の動向も全く分からない。どんなものが流行っているのかなんて尚分からない。
ニュースも見てないよ・・。ここまでくると世間的視野ではダメな人扱いされてしまうんだけども。
「世の中を知らずして生きてゆけるか!」って喝を入れられそうだよね。
それでも自分の周りは代わり映えなく時間を重ねていくんです。
足を踏み入れたことも無い、空気を吸ったことも無い遠い他国の動向を知らなくたって。
自国を脅かす狂気を知らぬままでも。
自分の時間は回り続け、そして二度とは戻らない。
この時代です、世界中と言わずとも自国の情報を収集して生活していく事は当然とされている。そりゃ何でも入手できるもんね。インターネットでも携帯電話でも、何かに繋がってない方が少ない。でも、そこに自分の欲しいものがあることって少ないんだよね。自分が本当に求めるものって、そう容易く手に入らない。手に入れた気になってるだけとか、勘違いが多い。
ある程度世の中に合わせて生きていかなきゃいけないから、外部の情報を手に入れるのは不可欠だけど、それが自分に何をもたらすのかを知らないと意味が無い。
他人に唆されてとる行動で生み出されたものは、後に何も残らない。残さない。
時が経てば、あったことすら思い出せなくなるものです。
自分を成長させる為に必要なのは他人から与えられたものではなく、自分自身で見つけた何か。
無論、人からきっかけを貰う事は大事です。それが無いと気づけるものも気づけない。
ただ、預けられた見知らぬ鍵を手に握っているだけ、見つめているだけでは、何の変化も訪れません。何処にあるのか分からない箱、扉・・・何かを開くためにあるそれの役目を果たしてやらないと。
手渡された鍵に合う鍵穴を持つものを探すこと、見つけること、それが一番大切だと思うの。
例え目に見えない変化であっても、ずっと先では力になる。
ボクはそう信じてるから、「気づく」という行為を大切にしてる。
だって、一つ気づいただけでそれまで見ていた世界が変わるんだ。その小さな発見で人の一生もガラリと変わる。閃きや直感が時として多大なる力を発揮するように、気づくことも計り知れないものをもたらすきっかけになる。
一瞬一瞬を大事に生きている人ほど輝いて見えるのは、色んなことに気づいて日々を重ねているからだと思うんだ。そんな人達は小さな物事にも素直に喜んだり驚いたり出来る。
そこにある違いは単純なもので、
眼の前の世界を当然として捉えるか、不思議として見るか。
結局、世界は二択で出来ているんじゃないかと思う。
生きるか死ぬか。
喰うか喰われるか。
行動するかしないか。
好きか嫌いか。
出来るか出来ないか。
当たり前か不思議か。
偶然か必然か。
気づくか、気づかないか。
他にももっと。何もかも。
自分の人生が退屈かどうかの判断は自分にしか出来ない。つまらないと思っているなら、何かを変えるしかないじゃん。そこに気づけるかどうか。
変えなきゃいけないと分かっているけど、行動に起こせないでいる。そこで、諦めるのか踠くのか。選択できるのは二つに一つ。
ボクが見つめる輝いている人達は、我知らずそれを心得ていて二者択一を実行している方ばかり。自分の求めるものを見失わずに、目的を果たして目標に向う。
方向を誤らない為に立てたある人の誓いに、自分の甘さを思い知らされた事だってある。でも、誰もが彼等のように強く信念を貫けるとは思ってないよ。心が弱い人、強い人は存在するからね。
ただ、何だかんだ言って御託を並べても、最後に辿り着くのは「諦めない」っていう想いを大切にしているかどうかだと思う。
「自分は弱いから」
って言ってるだけじゃ何も変わらないし変えられないことは、皆分かってるんでしょ。そこで止まっちゃいけないんだよ。
「じゃあ、どうすればいい?」
この言葉に進まないと、何も始まらない。
「自分は弱い。じゃあ、どうすれば変われるのかな」って。
「別に変わらなくていい」って言う人には、何も言わない。
その人が選んだんだ。ボクがどうこう言う必要も権利もない。
他人が見るとどんなに価値の無いものでも、自分が大事だと思うなら守り通さないといけない。痛みを伴わずに新しく生まれ変われることなんてありはしない。
変わりたいと本当に願っているなら、次を見つけないといけないことにもう気づいている筈なんだ。見てみぬ振りをしているだけでしょう?
「やったってどうせ意味ないよ」とか「自分なんか無理に決まってる」とか、
「諦めてる振り」をして逃げてるだけなんだ。
ボクはずっとそうだった。
でも、そこに僅かでも嫌悪を感じているのなら、逃げちゃいけないと思う。だって、本当はそれを望んでないってことでしょ?
「逃げない」ことを見つめる時、必要なのは「諦めない」という覚悟。踏み出す勇気なんて、その後に必要なものだ。
覚悟を決めたから、前に進む決意が出来る。決断を下したから、踏み出す勇気が生まれる。
諦めるのか諦めないのか。
諦めきれるのか、諦めきれないのか。
分かってる筈だよ。
答えを出さないといけない時は必ずくる。
その時、それまで、
逃げ続けるのか立ち向かうのか。
自分が一番大切にしたいものを見つけられたら、それに気づけたら、自ずと動き始めるものがある。
それと同時に訪れる岐路もある。
でも、覚悟があれば乗り越えられることもある。これに気づけた時、ボクはとても楽になれた。
何だかんだ偉そうに言ってるけど、これは全てボクの自論だから同意出来ない人がいて当然だし、ボクの事例が万人に当て嵌まるとは限らない。
つまるところ、自分のことを変えていくにはやっぱり何者にも譲れないものを自分で見つけていくしかないんだろうなぁ。
・・・・それにしても長いな。もう二時半まわってるし・・何時間掛かってるんだろう・・。やっぱり文章書くの遅いよなー・・・。
言葉を選ぶのに時間がかかるんだよね。自分の発した言葉には責任があるし。安易には書き殴れない。
くそ・・・今日は徹夜で体験学習行きか?←今から「陰陽師」DVDを観ようかな、とか思っている。
挑戦してみるか・・?でも声が出ないと困るんだよね~。
まぁいいや。後で考えよう。
そんな感じで、今宵の記事は、やけに纏まりのない幸村の自論で御座いました。
もう一度断っておきますが、これはあくまで幸村の意見。正しい、正しくないを訴求するつもりは御座いませぬ故。
それではこれにて。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
最早一日一項では足りなくなっている幸村です。どんどん書いてます。同日中に何項出せるか記録に挑戦していこうかしら・・・。
ではでは、本日二項目の御題に。
改めまして、おはこんばんちは。
このネタはもう一週間前ですが・・。何となく聞いていたCMが置鮎さんのナレーションだったと気づき、TVに噛り付いた幸村です。
ドラゴンボールのカード(あれはカードガムなのかな?)のCMです。
「置鮎さん程の声優さんなら、少なくともCMの一つや二つナレーションしてるだろうに、ワタシは全然気づけない・・・」
と思っていた丁度その時!!
「・・・・?この息遣いの癖は・・・も、もしや?!」
TVに噛り付いた幸村。
注意深く聴くと、声といい喋り癖といい置鮎さんじゃぁあ~りませんか!確認してないので本当にそうか否かは分かりませんが、あれは絶対に彼だ。あれは彼だよ~。
「なあんだ!!こんな近く(毎週見ている番組枠それは火曜イージャン)でCMしてたんだぁ。これから毎週聴けるぞ~」
と小躍りして喜んでたのに、今週は聴けなかった・・。違う番組を放送していたので二週間御預けです。うぅ~残念。
アニメで台詞を言うことと、ナレーションには全く別の技術が要求されるという話を聞いたことがあります。ナレーションの方が何倍も難しいと。
役者の個人的な感情を入れては広報の印象が台無しですから。
業者の要求に声の表現で応えなければならないし、かと言って無感情ではいけないし・・・。上手くいかないという結果を出してしまったら、自己責任では済みませんからね。
しかし声優という声のプロとして仕事を戴くなら、それには120%の出来で応えなければならないと思います。
言うは易しするは難し、ですけどね。
それは声優に限ったものでは無く、仕事をするというのはそういうことです。
出来て当たり前。出来ない、やらないは問題外です。
それが自身の求めるものでなかったとしても、それを仕事としている以上、事を成すのは義務です。そしてそこではより高度なものを生み出す責任がある。
「これでいいや」という意識で生活をしている人は、精々そこが限界でしょう。向上心がない人間はどの世界にいても成功しやしません。諦念を抱けばそれで幕引きです。
出来ないなら出来るようになるまで自身の腕を磨かなければならない。
それが嫌だと言う人は、自分の人生を真剣に見ていない・考えていないと思います。勿体無いことしてる。そういう人って、出来ない事を大抵他人の所為にするから手のつけ様がないんだけどね。自身の詰めの甘さによってもたらされた厄災を他人に擦り付けようとする。
何を言っても聞く耳持たずだったり、自分は絶対正しいって思い込んでたり。
でも、
世の中、中途半端で渡って行ける程温いもんじゃあない。
ずっと後で窮するのは自分自身です。自業自得。そうやって大きく頭を打つことも大事ですけどね、きっと。
上を目指すばかりが人生ではないけれど、目指さないままでいると落ちていくだけです。
上を掴みに行かずとも、精進する事と努力を惜しんではいけません。
中学の時、進学塾に通っていました。幸村が居たクラスは相当な勉強量と宿題の日々でしたが、まだ足りないと指摘されます。このクラスにいる以上はもっとやれと。
「これ以上する時間がないですよ・・・」って言ったら、
「でも、毎日寝てるんでしょ?」と言われました。
つまり、「寝る時間があるならそれを遣え」ということです。
その時初めて「時間は遣い方次第だな」と思いました。
努力なんてそう簡単に出来るもんじゃない。まして続けることなど至難です。やろうとしないと出来ないものだし、やりたくても上手くいかない時もあります。
自分は精一杯やっている。どうして認めてくれないんだろうって思うこともある。しかし実際はまだまだ足りないもんです。
傍から見てると穴のある時間の遣い方がよく見える(笑)。客観的な視点は時に、恐ろしいほど的を得ています。自分の指摘されたものは正にそれでした。
「こんなにやってるのに」って口にする時ほど、何処かに怠惰がちらついている。本当に必死なら自分がどれだけ死力を尽くしているのかなんて、はかれない。脇目も振らず一心不乱に取り組む際は、自分の姿が見えないからね。
ワタシはまだまだ必死さが足りません。常々思う。
それでも、同じ場所にはいたくない。
前にも言いました、進化しない自分はいらない。
だから何事に対しても研鑽を積んできたいと思います。
最早一日一項では足りなくなっている幸村です。どんどん書いてます。同日中に何項出せるか記録に挑戦していこうかしら・・・。
ではでは、本日二項目の御題に。
改めまして、おはこんばんちは。
このネタはもう一週間前ですが・・。何となく聞いていたCMが置鮎さんのナレーションだったと気づき、TVに噛り付いた幸村です。
ドラゴンボールのカード(あれはカードガムなのかな?)のCMです。
「置鮎さん程の声優さんなら、少なくともCMの一つや二つナレーションしてるだろうに、ワタシは全然気づけない・・・」
と思っていた丁度その時!!
「・・・・?この息遣いの癖は・・・も、もしや?!」
TVに噛り付いた幸村。
注意深く聴くと、声といい喋り癖といい置鮎さんじゃぁあ~りませんか!確認してないので本当にそうか否かは分かりませんが、あれは絶対に彼だ。あれは彼だよ~。
「なあんだ!!こんな近く(毎週見ている番組枠それは火曜イージャン)でCMしてたんだぁ。これから毎週聴けるぞ~」
と小躍りして喜んでたのに、今週は聴けなかった・・。違う番組を放送していたので二週間御預けです。うぅ~残念。
アニメで台詞を言うことと、ナレーションには全く別の技術が要求されるという話を聞いたことがあります。ナレーションの方が何倍も難しいと。
役者の個人的な感情を入れては広報の印象が台無しですから。
業者の要求に声の表現で応えなければならないし、かと言って無感情ではいけないし・・・。上手くいかないという結果を出してしまったら、自己責任では済みませんからね。
しかし声優という声のプロとして仕事を戴くなら、それには120%の出来で応えなければならないと思います。
言うは易しするは難し、ですけどね。
それは声優に限ったものでは無く、仕事をするというのはそういうことです。
出来て当たり前。出来ない、やらないは問題外です。
それが自身の求めるものでなかったとしても、それを仕事としている以上、事を成すのは義務です。そしてそこではより高度なものを生み出す責任がある。
「これでいいや」という意識で生活をしている人は、精々そこが限界でしょう。向上心がない人間はどの世界にいても成功しやしません。諦念を抱けばそれで幕引きです。
出来ないなら出来るようになるまで自身の腕を磨かなければならない。
それが嫌だと言う人は、自分の人生を真剣に見ていない・考えていないと思います。勿体無いことしてる。そういう人って、出来ない事を大抵他人の所為にするから手のつけ様がないんだけどね。自身の詰めの甘さによってもたらされた厄災を他人に擦り付けようとする。
何を言っても聞く耳持たずだったり、自分は絶対正しいって思い込んでたり。
でも、
世の中、中途半端で渡って行ける程温いもんじゃあない。
ずっと後で窮するのは自分自身です。自業自得。そうやって大きく頭を打つことも大事ですけどね、きっと。
上を目指すばかりが人生ではないけれど、目指さないままでいると落ちていくだけです。
上を掴みに行かずとも、精進する事と努力を惜しんではいけません。
中学の時、進学塾に通っていました。幸村が居たクラスは相当な勉強量と宿題の日々でしたが、まだ足りないと指摘されます。このクラスにいる以上はもっとやれと。
「これ以上する時間がないですよ・・・」って言ったら、
「でも、毎日寝てるんでしょ?」と言われました。
つまり、「寝る時間があるならそれを遣え」ということです。
その時初めて「時間は遣い方次第だな」と思いました。
努力なんてそう簡単に出来るもんじゃない。まして続けることなど至難です。やろうとしないと出来ないものだし、やりたくても上手くいかない時もあります。
自分は精一杯やっている。どうして認めてくれないんだろうって思うこともある。しかし実際はまだまだ足りないもんです。
傍から見てると穴のある時間の遣い方がよく見える(笑)。客観的な視点は時に、恐ろしいほど的を得ています。自分の指摘されたものは正にそれでした。
「こんなにやってるのに」って口にする時ほど、何処かに怠惰がちらついている。本当に必死なら自分がどれだけ死力を尽くしているのかなんて、はかれない。脇目も振らず一心不乱に取り組む際は、自分の姿が見えないからね。
ワタシはまだまだ必死さが足りません。常々思う。
それでも、同じ場所にはいたくない。
前にも言いました、進化しない自分はいらない。
だから何事に対しても研鑽を積んできたいと思います。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
本日またまた第二項目、どんだけ書いても書ききれない幸村です。と書いたのに、文章を書いてると時間かかって日付がかわっていた・・・。嗚呼、人生って儘ならない・・・。
プロフィールを「もっと面白くしろよ~」と友人に言われていたなあ・・と思い、本日・・いや昨日更新。大したことじゃあありません。幸村は凡人ですもの。特筆すべきことは然してなく・・。
「面白くって・・どうすりゃいいんだ?」
とやや悩むも、
「まあいっか。書くだけ書いとけ」
と直ぐに開き直りました。
近所の友よ、こんなプロフィールでいいかい?
あ、ダメって言われても書き直しようがないから勘弁しておくれよ?(笑)
性別に関しては、自分が女か男かはっきりしないから未公開です。以前の表記は女でしたが「自分は女だ」と自信を持って言えないからやっぱりやめました。「女です」と言う時、いつも違和感がありますし。
「えぇ~!!!?」
と思う方ばかりだと思いますので少々説明。
一応、ワタシは世間で女とされているようです。ふむ、確かに見た目は何の問題もないしねえ。女として扱われることも嫌ではないしなあ。なので、ワタシのこの感覚は性同一性障害とは全く違うのだと思います。実際、性同一性障害の方の著書も幾つか拝読しましたが、ワタシのそれとはまるで異なりましたし。
生まれてから今まで「女」と言われて生きてきました。それにしても、どうして自分は女なんでしょう?自分が「女」とされる理由が分かりません。見てくれがそれに準ずるものだからでしょうか。当然の如く自分は「女」だと思い込まされていましたが、
「そう言えば自分で自分の性別を決めた訳じゃないんだよな」
と高校生の時に気づきました。
皆、親や周囲の人間に教えられた性別に疑問を抱かないのかしら・・。まあそれをいうと自分の親とか誕生日とか、何もかも本当に教えられた通りなのか否か、その真実は分からないんですけどね。
この世界、人が持つ認識や意識は全て自分の中でしか造られていないんですもの。
ワタシの意識が男寄りという例を少し紹介。
幼い頃から憧れていたものは男の子たちと同じものだった。
中学に上がって声変わりしないことに対して嫌悪を抱いていた。(本当に「どうして声変わりしないのかなあ」と思ってました)
いまだに、低音が出にくいこの声には嫌悪を抱いてます。女性で言えば低いほうですけど、男性とは比べるまでもなく高い。・・どうして声変わりしないのかなあ・・。自分の声は好きなんだけどね。でも好きだからと言ってそれに満足してるとは限りません。何事もそうですけど。
恋愛相談に関して、女の子の考えが理解出来なくて困ることが多く、逆に男の子の意見の方が分かり易い。
女の子といると「何かあったらボクがこの子を護ってあげなくちゃ」とか何とか男っぽい考えが当たり前に浮かぶ。
あと、以前も書きましたけど好きになるものはその殆どが男物です。
極めつけは第一人称を「ボク」とするのが最も自然だということ。
このblogでは「ワタシ」としてますが「『ワタシ』じゃないんだよね・・・」とか思うこともしばしば。昨日か一昨日当たりに「ボク」って載せちゃったし(苦笑)
「ワタシ」「アタシ」を使うことが普通の時もありますよ。でも「ボク」が自然と出る時もある。そうね、これからは自然に任せて人称代名詞も変えちゃいましょう。だってここはボクのblogなんだもの(笑)
男に憧れているだけなのかもしれません。ひょっとすると、本当に男なのかもしれない。今は「単にワタシの脳が男脳に属しているだけで、男ではないのかなあ」とも思える。
何を以って「女」「男」を決定付けるのかは本人次第だよね。自分が自分を「男」と思いたいなら自身は男と認識していればいいし、「女」と思いたいのなら女であればいいと思います。
結局、他人がどう言おうと最後に決めるのは自分以外にいないんだもの。自分に関わる世界は全て、自分の意識の中で造られているから。自分の在り様は自分で決めないとね。
ワタシは「見てくれは女、中身(意識とか願望)は男」として生きてます。
あくまで自分がそう思っているだけです。生物学的に調べれば女と断定されることでしょう。それは火を見るよりも明らか・・な気がします(ハッキリしねえな、ヲィ)。でもね、
科学や知識で白黒決定出来る程、人の心は単純じゃないんだよ。って思う。
ワタシのこの考え方「見た目は女で中身は男」は、自分で性別を判断出来ない位置にあります・・。
中間ですね。「男でもないし女でもないけれど、男でもあり女でもある」
この考えに行き着いた時、とても気分が軽くなりました。
それまでは男か女かどちらか一方を選ばないといけないって思ってました。「どっちでもないんだよなあ・・」って思ってたのにどちらか選ばないといけない。
「・・・ん?待てよ。どっちでもないなら『どっちでもない』でいけばいいんじゃないのか?」
閃いたのは本の一瞬のこと。「人生は『気づけるか気づけないか』で大きく変わる」ということも同時に心得ました。
その考えに落ち着いても、性別表記の際「女」に丸をつけるのを躊躇することは変わらないんだけどね。
「男と女の間に丸つけようかな・・」なんて思うけど、先方に失礼でしょうし(苦笑)
「ま、見てくれは女だから女でいいいか。ていうか女にしないと問題になるし・・・」
そうやって紛らわせてます。
ああ・・何て不都合なんだこの感覚・・。
でも、
ボクはボクらしく。
自分が生きる上で一番の基本はそれしかない。
周りと同じなんて、何の価値も生まれないよきっと。
本日またまた第二項目、どんだけ書いても書ききれない幸村です。と書いたのに、文章を書いてると時間かかって日付がかわっていた・・・。嗚呼、人生って儘ならない・・・。
プロフィールを「もっと面白くしろよ~」と友人に言われていたなあ・・と思い、本日・・いや昨日更新。大したことじゃあありません。幸村は凡人ですもの。特筆すべきことは然してなく・・。
「面白くって・・どうすりゃいいんだ?」
とやや悩むも、
「まあいっか。書くだけ書いとけ」
と直ぐに開き直りました。
近所の友よ、こんなプロフィールでいいかい?
あ、ダメって言われても書き直しようがないから勘弁しておくれよ?(笑)
性別に関しては、自分が女か男かはっきりしないから未公開です。以前の表記は女でしたが「自分は女だ」と自信を持って言えないからやっぱりやめました。「女です」と言う時、いつも違和感がありますし。
「えぇ~!!!?」
と思う方ばかりだと思いますので少々説明。
一応、ワタシは世間で女とされているようです。ふむ、確かに見た目は何の問題もないしねえ。女として扱われることも嫌ではないしなあ。なので、ワタシのこの感覚は性同一性障害とは全く違うのだと思います。実際、性同一性障害の方の著書も幾つか拝読しましたが、ワタシのそれとはまるで異なりましたし。
生まれてから今まで「女」と言われて生きてきました。それにしても、どうして自分は女なんでしょう?自分が「女」とされる理由が分かりません。見てくれがそれに準ずるものだからでしょうか。当然の如く自分は「女」だと思い込まされていましたが、
「そう言えば自分で自分の性別を決めた訳じゃないんだよな」
と高校生の時に気づきました。
皆、親や周囲の人間に教えられた性別に疑問を抱かないのかしら・・。まあそれをいうと自分の親とか誕生日とか、何もかも本当に教えられた通りなのか否か、その真実は分からないんですけどね。
この世界、人が持つ認識や意識は全て自分の中でしか造られていないんですもの。
ワタシの意識が男寄りという例を少し紹介。
幼い頃から憧れていたものは男の子たちと同じものだった。
中学に上がって声変わりしないことに対して嫌悪を抱いていた。(本当に「どうして声変わりしないのかなあ」と思ってました)
いまだに、低音が出にくいこの声には嫌悪を抱いてます。女性で言えば低いほうですけど、男性とは比べるまでもなく高い。・・どうして声変わりしないのかなあ・・。自分の声は好きなんだけどね。でも好きだからと言ってそれに満足してるとは限りません。何事もそうですけど。
恋愛相談に関して、女の子の考えが理解出来なくて困ることが多く、逆に男の子の意見の方が分かり易い。
女の子といると「何かあったらボクがこの子を護ってあげなくちゃ」とか何とか男っぽい考えが当たり前に浮かぶ。
あと、以前も書きましたけど好きになるものはその殆どが男物です。
極めつけは第一人称を「ボク」とするのが最も自然だということ。
このblogでは「ワタシ」としてますが「『ワタシ』じゃないんだよね・・・」とか思うこともしばしば。昨日か一昨日当たりに「ボク」って載せちゃったし(苦笑)
「ワタシ」「アタシ」を使うことが普通の時もありますよ。でも「ボク」が自然と出る時もある。そうね、これからは自然に任せて人称代名詞も変えちゃいましょう。だってここはボクのblogなんだもの(笑)
男に憧れているだけなのかもしれません。ひょっとすると、本当に男なのかもしれない。今は「単にワタシの脳が男脳に属しているだけで、男ではないのかなあ」とも思える。
何を以って「女」「男」を決定付けるのかは本人次第だよね。自分が自分を「男」と思いたいなら自身は男と認識していればいいし、「女」と思いたいのなら女であればいいと思います。
結局、他人がどう言おうと最後に決めるのは自分以外にいないんだもの。自分に関わる世界は全て、自分の意識の中で造られているから。自分の在り様は自分で決めないとね。
ワタシは「見てくれは女、中身(意識とか願望)は男」として生きてます。
あくまで自分がそう思っているだけです。生物学的に調べれば女と断定されることでしょう。それは火を見るよりも明らか・・な気がします(ハッキリしねえな、ヲィ)。でもね、
科学や知識で白黒決定出来る程、人の心は単純じゃないんだよ。って思う。
ワタシのこの考え方「見た目は女で中身は男」は、自分で性別を判断出来ない位置にあります・・。
中間ですね。「男でもないし女でもないけれど、男でもあり女でもある」
この考えに行き着いた時、とても気分が軽くなりました。
それまでは男か女かどちらか一方を選ばないといけないって思ってました。「どっちでもないんだよなあ・・」って思ってたのにどちらか選ばないといけない。
「・・・ん?待てよ。どっちでもないなら『どっちでもない』でいけばいいんじゃないのか?」
閃いたのは本の一瞬のこと。「人生は『気づけるか気づけないか』で大きく変わる」ということも同時に心得ました。
その考えに落ち着いても、性別表記の際「女」に丸をつけるのを躊躇することは変わらないんだけどね。
「男と女の間に丸つけようかな・・」なんて思うけど、先方に失礼でしょうし(苦笑)
「ま、見てくれは女だから女でいいいか。ていうか女にしないと問題になるし・・・」
そうやって紛らわせてます。
ああ・・何て不都合なんだこの感覚・・。
でも、
ボクはボクらしく。
自分が生きる上で一番の基本はそれしかない。
周りと同じなんて、何の価値も生まれないよきっと。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
一冊の本に育てられてきた幸村です。
今日の記事は白哉さんじゃあございやせん。
長きに亘り母親から「読め読め」と言われ続けている、とある方の著書についてです。
昨夜突然思い立ち、某古本屋へ人力二輪車を漕いで向いました。そうですね、片道約20分程度です。大した距離じゃあございません。
幸村にとって半径10キロメートルは、自転車での行動範囲。片道20分なら大体7~8キロといったところでしょうか。
しかし流石にこの時節。真夜中のくせに体に触れる風を始めその瞬間の大気自体が兎に角生温かい。温かい・・というより、やたらと湿度と温度の高い風呂に入っている感じです。ともすると息苦しい。家の外にいるのに心持ちがよろしくないなんて久しぶりでした。
まあ、何はともあれ目的地に到着。
脇目も振らず講談社現代新書シリーズが陳列されている棚へ向います。
タイトルは「愛に生きる」
著者はスズキ・メソードの創始者「鈴木鎮一」先生です。
スズキ・メソードとは、鈴木先生が始められたヴァイオリンの才能教育。今や世界中でその活動は行われています。そして、ワタシもスズキ・メソードでヴァイオリンをしておりました。
才能教育といっても、ヴァイオリンで世界のトップに立つ為のプロを育てる英才教育では決してありません。
ヴァイオリンを身につけ習うことで、その人の人間性を高めることを目的とする教育。ヴァイオリンを通して、芸術というものの本質を自然と身につけよう、理解しようという教育。
人としての本当の魅力を身につけるためのヴァイオリン教育。
音楽を通して愛と才能を育てる為の教育。
ワタシなりに言うとこんな感じです。
書店に入り、以前チラと眼にした気がしていたので迷うことなくその場に立ち、特徴的な背表紙――ヴァイオリンの写真が作者名の上に印刷されている――を探します。
そして五秒と経たぬうちに発見。そのときのワタシは恐らく見えぬものをもこの眼に捉えんとする形相であったと思われます(笑)自分があれ程眼に神経を集中させて物を探すのは稀です。
「あった・・・」
顔は満面の笑みですが言葉は出ませんでした。胸が優しさで一杯に満たされた感覚ですかね。本当に嬉しい時って、何も言えないものなんですね。
ワタシがワタシであるのは、この書の御陰です。
自身が読んでいないのにそう言い切れるのは、母親がこの書に記されたことをワタシに実行してくれていたから。その施しを嫌がった時期もありましたが、今は、ワタシは本当に愛されているのだな、と素直にそれを受けとめられるようになりました。
鈴木先生との出逢いは、母親の人生に於いて最大の廻り合わせであったそうです。そしてその出逢いがあったからこそ、ワタシは今生きていると言えます。それは、ワタシを形作る全てが、母の敬する鈴木先生の信念によってつくられているから。
母はこの書を自身のバイブルとして大事にしています。手元には二冊。一冊は読み込み過ぎてもう本の状態を保っていません。背面の接着は外れて一項づつバラバラですし、鉛筆や赤鉛筆で線引きされた中身はワタシが文字を読むのは一苦労です。母は内容や本文の殆どを覚えているようで、その状態でも読めるようですが。
あと一冊は真新しいまま保管しています。ワタシが大きくなったら与えるために買っておいたものだそうです。しかしそれ程大事なものですからワタシが貰うには忍びなく、自分で買うことにしたんです。
ただ、高校生の時近くの書店に行くと廃盤になったのではないかと言われました。まだまだ販売されている筈なんですけどねえ・・・。その書店のPCにはヒットしなくて。
それから今日まで古本屋で探すという案に至らず手に入れるのがこんなにも遅れてしまいました。
小学生の時、母の鈴木先生との出逢い話を初めて聞き、いつかの先生と母との会話のテープを聴き、自分も何となく先生に憧れた記憶があります。
中学になって初めて、「愛に生きる」を読むことを奨められました。しかし先生を敬愛してはいるものの、読まずに過ごします。あまりに読み込まれた母の本を見るに、何だかワタシが触るのはまだいけない気がしたから。
高校生で書店に向かい、儚くも手にすることは叶わず。
そして昨夜です。
「行ってみよう」
何があったのか分かりませんが急に買いに行かねば、と思いました。いやはや、あってよかったよかった☆
ヴァイオリンが自分の半身であると思うようになったのは、高校生の時。
ヴァイオリンがどれだけ自分の中で消すことの出来ない存在なのかを思い知らされてから。ヴァイオリンが自分を自分たらしめていると気づいてから。
冗談抜きで、ヴァイオリンがなかったら、自分は幸せにはなれていなかったとまで思います。
今まで出逢えた人たちにも逢えていなかったし、何より人格も性格も違っていたでしょう。
普段友人といる時にはそんなことおくびにも出しませんけど。
母がどれだけ鈴木鎮一先生を尊敬しているのかは、彼について話す際の眼、その表情から痛いほど伝わってきます。
自分も人生を変えてくれた敬愛すべき人物との出逢いの経験がありますから、その想いが彼女の中でどれ程大切なのか、手に取るようにわかります。
そしてこの頃になって漸く鈴木先生の教育の真髄が感覚として理解出来てきた気がします。
それと、今になって分かったこと。それは
母は確かに、愛に生きている。ということ。
鈴木先生の仰ったことをワタシに余す事なく教えてくれていたのだということ。
ワタシは幸せ者。ということ。
それは全て鈴木先生とヴァイオリンが与えてくれたものなんですよ。
本当に、ありがとうございます。
この感謝は、今は亡き鈴木鎮一先生に奉げます。
本項に挙げた著書の詳細は
「愛に生きる 才能は生まれつきではない」
鈴木鎮一 著
株式会社 講談社 講談社現代新書
1966年8月16日第一刷発行
ISBN4-06-115486-9
です。御興味が御座いましたら、是非一度書店へ。
↓コメント返信↓
光崎 秋良さん。いらっしゃいませ!
ヨーグルトに果物、幸村も入れて食べることあります。桃や苺をいれるのが好きです。甘酸っぱさがなんとも言えませんよね。
光崎 秋良さんも、どうぞきな粉に挑戦してくださいませ~。
感想、お待ちしております(笑)
幸村玖月
一冊の本に育てられてきた幸村です。
今日の記事は白哉さんじゃあございやせん。
長きに亘り母親から「読め読め」と言われ続けている、とある方の著書についてです。
昨夜突然思い立ち、某古本屋へ人力二輪車を漕いで向いました。そうですね、片道約20分程度です。大した距離じゃあございません。
幸村にとって半径10キロメートルは、自転車での行動範囲。片道20分なら大体7~8キロといったところでしょうか。
しかし流石にこの時節。真夜中のくせに体に触れる風を始めその瞬間の大気自体が兎に角生温かい。温かい・・というより、やたらと湿度と温度の高い風呂に入っている感じです。ともすると息苦しい。家の外にいるのに心持ちがよろしくないなんて久しぶりでした。
まあ、何はともあれ目的地に到着。
脇目も振らず講談社現代新書シリーズが陳列されている棚へ向います。
タイトルは「愛に生きる」
著者はスズキ・メソードの創始者「鈴木鎮一」先生です。
スズキ・メソードとは、鈴木先生が始められたヴァイオリンの才能教育。今や世界中でその活動は行われています。そして、ワタシもスズキ・メソードでヴァイオリンをしておりました。
才能教育といっても、ヴァイオリンで世界のトップに立つ為のプロを育てる英才教育では決してありません。
ヴァイオリンを身につけ習うことで、その人の人間性を高めることを目的とする教育。ヴァイオリンを通して、芸術というものの本質を自然と身につけよう、理解しようという教育。
人としての本当の魅力を身につけるためのヴァイオリン教育。
音楽を通して愛と才能を育てる為の教育。
ワタシなりに言うとこんな感じです。
書店に入り、以前チラと眼にした気がしていたので迷うことなくその場に立ち、特徴的な背表紙――ヴァイオリンの写真が作者名の上に印刷されている――を探します。
そして五秒と経たぬうちに発見。そのときのワタシは恐らく見えぬものをもこの眼に捉えんとする形相であったと思われます(笑)自分があれ程眼に神経を集中させて物を探すのは稀です。
「あった・・・」
顔は満面の笑みですが言葉は出ませんでした。胸が優しさで一杯に満たされた感覚ですかね。本当に嬉しい時って、何も言えないものなんですね。
ワタシがワタシであるのは、この書の御陰です。
自身が読んでいないのにそう言い切れるのは、母親がこの書に記されたことをワタシに実行してくれていたから。その施しを嫌がった時期もありましたが、今は、ワタシは本当に愛されているのだな、と素直にそれを受けとめられるようになりました。
鈴木先生との出逢いは、母親の人生に於いて最大の廻り合わせであったそうです。そしてその出逢いがあったからこそ、ワタシは今生きていると言えます。それは、ワタシを形作る全てが、母の敬する鈴木先生の信念によってつくられているから。
母はこの書を自身のバイブルとして大事にしています。手元には二冊。一冊は読み込み過ぎてもう本の状態を保っていません。背面の接着は外れて一項づつバラバラですし、鉛筆や赤鉛筆で線引きされた中身はワタシが文字を読むのは一苦労です。母は内容や本文の殆どを覚えているようで、その状態でも読めるようですが。
あと一冊は真新しいまま保管しています。ワタシが大きくなったら与えるために買っておいたものだそうです。しかしそれ程大事なものですからワタシが貰うには忍びなく、自分で買うことにしたんです。
ただ、高校生の時近くの書店に行くと廃盤になったのではないかと言われました。まだまだ販売されている筈なんですけどねえ・・・。その書店のPCにはヒットしなくて。
それから今日まで古本屋で探すという案に至らず手に入れるのがこんなにも遅れてしまいました。
小学生の時、母の鈴木先生との出逢い話を初めて聞き、いつかの先生と母との会話のテープを聴き、自分も何となく先生に憧れた記憶があります。
中学になって初めて、「愛に生きる」を読むことを奨められました。しかし先生を敬愛してはいるものの、読まずに過ごします。あまりに読み込まれた母の本を見るに、何だかワタシが触るのはまだいけない気がしたから。
高校生で書店に向かい、儚くも手にすることは叶わず。
そして昨夜です。
「行ってみよう」
何があったのか分かりませんが急に買いに行かねば、と思いました。いやはや、あってよかったよかった☆
ヴァイオリンが自分の半身であると思うようになったのは、高校生の時。
ヴァイオリンがどれだけ自分の中で消すことの出来ない存在なのかを思い知らされてから。ヴァイオリンが自分を自分たらしめていると気づいてから。
冗談抜きで、ヴァイオリンがなかったら、自分は幸せにはなれていなかったとまで思います。
今まで出逢えた人たちにも逢えていなかったし、何より人格も性格も違っていたでしょう。
普段友人といる時にはそんなことおくびにも出しませんけど。
母がどれだけ鈴木鎮一先生を尊敬しているのかは、彼について話す際の眼、その表情から痛いほど伝わってきます。
自分も人生を変えてくれた敬愛すべき人物との出逢いの経験がありますから、その想いが彼女の中でどれ程大切なのか、手に取るようにわかります。
そしてこの頃になって漸く鈴木先生の教育の真髄が感覚として理解出来てきた気がします。
それと、今になって分かったこと。それは
母は確かに、愛に生きている。ということ。
鈴木先生の仰ったことをワタシに余す事なく教えてくれていたのだということ。
ワタシは幸せ者。ということ。
それは全て鈴木先生とヴァイオリンが与えてくれたものなんですよ。
本当に、ありがとうございます。
この感謝は、今は亡き鈴木鎮一先生に奉げます。
本項に挙げた著書の詳細は
「愛に生きる 才能は生まれつきではない」
鈴木鎮一 著
株式会社 講談社 講談社現代新書
1966年8月16日第一刷発行
ISBN4-06-115486-9
です。御興味が御座いましたら、是非一度書店へ。
↓コメント返信↓
光崎 秋良さん。いらっしゃいませ!
ヨーグルトに果物、幸村も入れて食べることあります。桃や苺をいれるのが好きです。甘酸っぱさがなんとも言えませんよね。
光崎 秋良さんも、どうぞきな粉に挑戦してくださいませ~。
感想、お待ちしております(笑)
幸村玖月
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
書きたいことが多くて書くべき順番が分からない幸村です。
縁は大事にしないといけないなあ、なんて最近よく思います。
尊敬する役者さんがよく仰ってることもあって常に念頭に置いてはいますが、ともすると忘れてしまうこともある。それは、自分の認識がまだまだ甘いということに他ならないわけですが。
「自分が居るべきところに、きちんと自分を連れて行くこと」
「とにかく続けることですかね。縁を拾うには拾える場所にいないとね」
運を拾うためには続けること。
「運はいつ巡ってくるか分かりません。だから「力」がないと運に出会ったときには活かせません。その時に備えて力は常に蓄えておかなくてはいけない」
日常の蓄えが運を掴むことになる。
ワタクシが敬愛する二人の役者さんの言葉です。
こういうことって、実際に体験しないとその大切さが分からない。人に言われて「ああ、そうだ」と思っても、思うだけじゃ自分の中でそれを噛み砕いて消化して体に吸収させることは出来ないからね。
分かったつもりで過ごしてるってこと、よくある。
それが一番いけない、危ないってことはもう知ってる。
自分が成長出来ない元凶の一はそこにあったりすることも知ってる。
「知ってる」
この言葉、一見理解に至っていると思いがちですが、ホントに理解出来ているか否かは定かじゃありませんよね。「知ってる」だけで「分かってない」かもしれない。
「その言葉、本当に分かって遣ってる?」って、時々色んな想いに対して自問自答します。毎回答えは出ないんですけど。
今日載せた二人の言葉に対してもいえますが、
「人から言葉を貰うことだけじゃない。人から何か形にもならないあらゆるものを貰えるのって、すごく恵まれてる」と思います。対面出来なくても誰かと関われる状態にあることが、とても大切なんだなあと。少なくとも、一人きりで生きているんじゃないと断言できる状況に置いてもらえている。
孤独を感じているとか、誰にも助けてもらってないとか言っても、絶対に誰かが何処かで自分の生命維持に携わってる。
だって、その人生きてるんだもん。飲まず食わずな訳ないでしょ。「食べてないよ!」って言っても、水くらいは飲んでるだろうし。それに家にいたって服着てるだろうし。家の中には物があるだろうし。そもそも家を持ってるし。(実際は、家や服がない人もこの国にも沢山いるけれど。)それらがあると仮定する。
水を飲んでるってことは、水道関係で働いてる人たち、汚水処理に関係する仕事の人たち、電気関係で働いてる人たち、水道管とかキッチンの蛇口とか造ってる人たち、もっともっともっと他の人たちの仕事の結果、ワタシたちは水を飲めるんだもん。何をあげるより「水」という存在に救われてるじゃん。
服を着てる、家に物がある、となると、ワタシには想像もつかないような細かい作業をしてくれてる人たちが、もうわんさかいるんだもん。気づいてないだけだよね。
一人で生きるって、自分の肉体以外からは何も吸収しないってことを言うんじゃないの?
さっきも言ったじゃん。
「分かったつもりで過ごしてるってこと、よくある。」って。
人間が今の世の中でその生命を維持していられる、維持しているということは、もうその事実自体が誰かの助けを得ているという証明になってる。そこには必ず縁があって、一期一会かもしれないし、自分の性には合わない人かもしれないけど、絶対に次に繋がっていくものなんだもの。大事にしない訳にはいかないよね。それと、感謝も。
「ありがとう」って言わなくてもいい。ただ心の中に思うだけで、それだけで新しいものがいつかは生まれていくんじゃないかな。それがいつになるのかは誰にも分からないけどさ。
縁や力だけじゃなくて、森羅万象全てに言えることなのかなあ、なんて思う。
結局は、何に対しても感謝の念を絶やさないことが一番大切なのかもしれないね。
縁の話で始まったのに、感謝で落ち着いてるこの文章って・・・国語で言うと失敗した作文なんだろうな(笑)
書きたいことが多くて書くべき順番が分からない幸村です。
縁は大事にしないといけないなあ、なんて最近よく思います。
尊敬する役者さんがよく仰ってることもあって常に念頭に置いてはいますが、ともすると忘れてしまうこともある。それは、自分の認識がまだまだ甘いということに他ならないわけですが。
「自分が居るべきところに、きちんと自分を連れて行くこと」
「とにかく続けることですかね。縁を拾うには拾える場所にいないとね」
運を拾うためには続けること。
「運はいつ巡ってくるか分かりません。だから「力」がないと運に出会ったときには活かせません。その時に備えて力は常に蓄えておかなくてはいけない」
日常の蓄えが運を掴むことになる。
ワタクシが敬愛する二人の役者さんの言葉です。
こういうことって、実際に体験しないとその大切さが分からない。人に言われて「ああ、そうだ」と思っても、思うだけじゃ自分の中でそれを噛み砕いて消化して体に吸収させることは出来ないからね。
分かったつもりで過ごしてるってこと、よくある。
それが一番いけない、危ないってことはもう知ってる。
自分が成長出来ない元凶の一はそこにあったりすることも知ってる。
「知ってる」
この言葉、一見理解に至っていると思いがちですが、ホントに理解出来ているか否かは定かじゃありませんよね。「知ってる」だけで「分かってない」かもしれない。
「その言葉、本当に分かって遣ってる?」って、時々色んな想いに対して自問自答します。毎回答えは出ないんですけど。
今日載せた二人の言葉に対してもいえますが、
「人から言葉を貰うことだけじゃない。人から何か形にもならないあらゆるものを貰えるのって、すごく恵まれてる」と思います。対面出来なくても誰かと関われる状態にあることが、とても大切なんだなあと。少なくとも、一人きりで生きているんじゃないと断言できる状況に置いてもらえている。
孤独を感じているとか、誰にも助けてもらってないとか言っても、絶対に誰かが何処かで自分の生命維持に携わってる。
だって、その人生きてるんだもん。飲まず食わずな訳ないでしょ。「食べてないよ!」って言っても、水くらいは飲んでるだろうし。それに家にいたって服着てるだろうし。家の中には物があるだろうし。そもそも家を持ってるし。(実際は、家や服がない人もこの国にも沢山いるけれど。)それらがあると仮定する。
水を飲んでるってことは、水道関係で働いてる人たち、汚水処理に関係する仕事の人たち、電気関係で働いてる人たち、水道管とかキッチンの蛇口とか造ってる人たち、もっともっともっと他の人たちの仕事の結果、ワタシたちは水を飲めるんだもん。何をあげるより「水」という存在に救われてるじゃん。
服を着てる、家に物がある、となると、ワタシには想像もつかないような細かい作業をしてくれてる人たちが、もうわんさかいるんだもん。気づいてないだけだよね。
一人で生きるって、自分の肉体以外からは何も吸収しないってことを言うんじゃないの?
さっきも言ったじゃん。
「分かったつもりで過ごしてるってこと、よくある。」って。
人間が今の世の中でその生命を維持していられる、維持しているということは、もうその事実自体が誰かの助けを得ているという証明になってる。そこには必ず縁があって、一期一会かもしれないし、自分の性には合わない人かもしれないけど、絶対に次に繋がっていくものなんだもの。大事にしない訳にはいかないよね。それと、感謝も。
「ありがとう」って言わなくてもいい。ただ心の中に思うだけで、それだけで新しいものがいつかは生まれていくんじゃないかな。それがいつになるのかは誰にも分からないけどさ。
縁や力だけじゃなくて、森羅万象全てに言えることなのかなあ、なんて思う。
結局は、何に対しても感謝の念を絶やさないことが一番大切なのかもしれないね。
縁の話で始まったのに、感謝で落ち着いてるこの文章って・・・国語で言うと失敗した作文なんだろうな(笑)
昨日、お気に入りのフルボの腕時計が止まってしまいました。
昨年の夏からの愛用品です。
何も壊れてしまった訳ではないので、電池を交換すればまた使えるんですけど。
何というか・・・うぅーん。
「動かなくなった」というのが哀しいのですよ。命が尽きたような感じがして。
幼い頃から腕時計は好きでした。
時計屋へ赴いては時間を忘れて見入っていたり。それは今も変わらずです。
「次に買うのはどれにしよう」と常に考えていて、お店を訪ねた際には必ず店員さんに、眼にとまったものを幾つかケースから出して貰います。時計自身のデザインは文句無しなのに、ワタシの腕には合わない事が多々あり、幸村の下に嫁入り(?)出来なかった子はその数を知り得ません。
着けてみると随分雰囲気違いますよね。
専ら購入するものは男性用です。フェイスが大きい点は私の中での「腕時計に関する絶対条件」なので。フェイスが小さいもの(女性用)は、好きになれません。視覚的な感覚の問題でしょうけど。
腕時計に限らず、買い物をしている際に気に入るものは大抵男物です。扇子然り、下駄然り、靴然り、財布然り、眼鏡然り、手帳然り、衣服然り、香水然り・・・。数え始めると限が無い。
「あ、これいい!」
と思ってタグを見ると、どっかに必ず「紳士用」と表記されてます。
「またかよ!!」
と思うこともこの歳になると慣れてきました(笑)
腕時計の話に戻しますが、そんな理由で本日は時計をつけずに出掛けました。何年振りといえる状況だ・・。
家から目的地までは二十分程度の移動だったんですけど、その間相当な回数、腕時計に眼を遣っていました。してないから時間は分からないのだけれど。
左腕に意識を向ける度に
「おゎ、また見てるよワタシ」
と苦笑いです。
今までそれが無意識であったとは言え、それほど時間を気にしていたとは思いも掛けませんでした。
時間に縛られている訳ではないけど、時間に捕らわれて生きてるなあ、と思ったりします。だからと言って、時間に敏感だとか、遣い方に無駄が無いとう事もなくて・・なんだか意識してるだけで骨折り損のようなきがしました。いやホント情けない・・。
###
時間って、気にしないとそれまで。意味も価値も全く無いまま遣り過ごしてしまうことになる。
でも、
だからと言って時間を一瞬間も無駄にせず一生を過ごすことなんてできないと思う。
自分がどれだけそれを無益なものにしてきたかなんて、後にならないと判らない。
常に「今」にある自分たちが「今」の価値をはかることは不可能なんじゃないかな。時間に関して、評価は絶えず自身の生み出した「過去」に対して下されるもので、「未来」やら「将来」なんかを踏み誤らない為の思料でしかないのかも。「現在」って、すごく曖昧な時空に位置してるから、人の手には余る存在なんだろうな。
###
そんな風に、幸村は思うのです。
時間に捕らわれているのかもしれないワタシですが、やはり腕時計は手放せない。時計が無ければ時間も気にせず過ごせるだろうに。
その理由は、実用的だとか無いと落ち着かないというものでは無いと思います。この感覚は最早、その存在を友のように捉えている気がする。
一緒にいるのが自然なの。
早く電池を入れ換えて、キミを連れて出掛けられるようにするからね。
昨年の夏からの愛用品です。
何も壊れてしまった訳ではないので、電池を交換すればまた使えるんですけど。
何というか・・・うぅーん。
「動かなくなった」というのが哀しいのですよ。命が尽きたような感じがして。
幼い頃から腕時計は好きでした。
時計屋へ赴いては時間を忘れて見入っていたり。それは今も変わらずです。
「次に買うのはどれにしよう」と常に考えていて、お店を訪ねた際には必ず店員さんに、眼にとまったものを幾つかケースから出して貰います。時計自身のデザインは文句無しなのに、ワタシの腕には合わない事が多々あり、幸村の下に嫁入り(?)出来なかった子はその数を知り得ません。
着けてみると随分雰囲気違いますよね。
専ら購入するものは男性用です。フェイスが大きい点は私の中での「腕時計に関する絶対条件」なので。フェイスが小さいもの(女性用)は、好きになれません。視覚的な感覚の問題でしょうけど。
腕時計に限らず、買い物をしている際に気に入るものは大抵男物です。扇子然り、下駄然り、靴然り、財布然り、眼鏡然り、手帳然り、衣服然り、香水然り・・・。数え始めると限が無い。
「あ、これいい!」
と思ってタグを見ると、どっかに必ず「紳士用」と表記されてます。
「またかよ!!」
と思うこともこの歳になると慣れてきました(笑)
腕時計の話に戻しますが、そんな理由で本日は時計をつけずに出掛けました。何年振りといえる状況だ・・。
家から目的地までは二十分程度の移動だったんですけど、その間相当な回数、腕時計に眼を遣っていました。してないから時間は分からないのだけれど。
左腕に意識を向ける度に
「おゎ、また見てるよワタシ」
と苦笑いです。
今までそれが無意識であったとは言え、それほど時間を気にしていたとは思いも掛けませんでした。
時間に縛られている訳ではないけど、時間に捕らわれて生きてるなあ、と思ったりします。だからと言って、時間に敏感だとか、遣い方に無駄が無いとう事もなくて・・なんだか意識してるだけで骨折り損のようなきがしました。いやホント情けない・・。
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時間って、気にしないとそれまで。意味も価値も全く無いまま遣り過ごしてしまうことになる。
でも、
だからと言って時間を一瞬間も無駄にせず一生を過ごすことなんてできないと思う。
自分がどれだけそれを無益なものにしてきたかなんて、後にならないと判らない。
常に「今」にある自分たちが「今」の価値をはかることは不可能なんじゃないかな。時間に関して、評価は絶えず自身の生み出した「過去」に対して下されるもので、「未来」やら「将来」なんかを踏み誤らない為の思料でしかないのかも。「現在」って、すごく曖昧な時空に位置してるから、人の手には余る存在なんだろうな。
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そんな風に、幸村は思うのです。
時間に捕らわれているのかもしれないワタシですが、やはり腕時計は手放せない。時計が無ければ時間も気にせず過ごせるだろうに。
その理由は、実用的だとか無いと落ち着かないというものでは無いと思います。この感覚は最早、その存在を友のように捉えている気がする。
一緒にいるのが自然なの。
早く電池を入れ換えて、キミを連れて出掛けられるようにするからね。
プロフィール
HN:
幸村玖月
HP:
性別:
非公開
趣味:
ストレッチ。歌。シャドーイング。
自己紹介:
≪座右の銘≫
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助
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2012年7月からがベイベー記事。
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