幸村が気侭に綴るblog。 及川光博氏のメッセージ性・自己実現への姿勢を見習う日々。
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
先週までは全く蝉の合唱が耳に入らなかったのに、昨日家を出た瞬間にその声を浴びた幸村です。
すごかったなぁ。一年振りに聞くと感慨深いです。
「おっ!夏だな!!」
って、胸がウキウキしちゃった。
網戸に蝉さんが張り付いていた時も夏を感じましたが、やはり合唱となるとインパクトが違いますね。
突然の雷雨や色濃くなった影も充分夏の訪れを感じさせますが、最後にはやはり蝉の声。これがないとね!
しかし、昨夜は随分と秋っぽい夜でした。
蒸し暑さは梅雨にも劣りませんでしたが、何となく、肌を撫でる風と周囲の空気がさらりとしていて不気味だった。
今も、部屋を抜ける風がひんやりとしています。雨上がりだから・・・?いやそんなんじゃあないと思います。雨降ってないし。
・・・ここ数年、まともな季節ってないからなあ。どれもこれも何だかおかしい。
そのうち四季が有耶無耶になってしまうのではないかと、心穏やかではありません。
平安時代はこんなんじゃなかったんだろうな。
もっともっとどの季節も清清しくて、夏もこんなに不快じゃなかったと思う。
冬は今よりずっと寒かっただろうから、しのぐのは辛いけど・・・。秋の月は想像出来ないほど美しかっただろうな。
空気が違うんだもの。眼に映るものの色合いは全然違うと思う。夜空の色も違うんだろうな。
空には一切区画もない。電線が張り巡らされていないんだ、何処までも遠く一面のみの空が広がっている。
プロフィールにもありますが、幸村は平安時代が好き。
平安時代の何もかもがとても懐かしく思われます。
中学生の時だったかな。ふと気づいたことに涙が止まらなくなった。
「・・・・あぁ、ボクは平安時代にはいけないんだな」と。
そんなこと、気づくも何も当然のことです。それまでだって分かってた。
でも本当の意味で理解した瞬間、胸が引き裂かれるような思いで居た堪れなくなってしまった。自分がその場に行けないことがこんなにも辛いことだなんて思いもしなかった。
一千年前の日本が、本当はどんなものだったのか。この眼で確かめることは叶わない。
資料集に代表される平安時代って、京の都、特に平安京は内裏などが殆どです。一見優雅に思えますが全国津々浦々一様である筈がない。平民達の暮らし振りとかも見てみたいんだけどな・・・。
平安の昔、そこでワタシは男だったと思います。幾つか数は踏んでるでしょうけど、前世の一つがそれだと思う。あくまで自己判断ですが。
殿方の衣装を始め、彼等の機微も含めて全てが懐かしくて懐かしくて・・・物狂いになりそうなくらいです。
平安時代を始め電気の無い生活って、憧れます。(そして無性に懐かしい。)
だって、夜は蝋燭や油の火で過ごすんですよ!こんなに素敵な宵の過ごし方はありません。
星空が冴え渡り月影が屋敷の何処までものびる。そんな中、几帳越しに人と面会するとドキドキしてしまいます。
無駄な音が一切無く、それぞれの季節の中で鼓動を持つものと実態をもたないものたちが共存している。
冷蔵庫やレンジがないのがその時代の常ですから、そこで生きていれば困ることもありません。今突然に全ての電力が落ちれば人間は文明の殆どを失いかねませんが、その昔は電気のない生活をしていたんですからやって出来ないことはない。
地球存続の危機がどーたらこーたら言ってるなら、少しづつ昔の生活に戻していけばいいのにって、中学の頃から思ってました。
「そんなの無理無理」って言ってしまえばそれで御終い。
頭つかってくださいよ。飾りじゃないんだから。
今の生活が地球にも人間にも合っていない。ならば、先達の行いを実行すればいいんですよ。
どこか一つのパーツを動かせば、自然とその周りにあるパーツをそれに合わせて動かさないといけなくなる。そうやって時間をかけて一個一個変えていくしか方法はありません。一瞬で全てに変化をもたらせるなら、人間は今こんなに悩んでません。
一つづつでも変えていけるなら行動に移さないと勿体無い。難しく考えることはありませんよ。最終的に全てが変容を遂げていればそれで成功なんです。
結果の良し悪しは無論大切ですが。
平安時代の生活、ワタシは日本人に一番適したものだと思うんですがねえ・・・。
何もあれ程のんびり生きろと言っている訳では御座いませんよ。生活の仕方をそれにしたら温暖化やら何やらの対策になるんじゃないかなって。
ほら、家の中でクーラー使わないし、車使わないし、道は一切が土ですからヒートアイランドなんて起こらない。家屋は木造ですから壁が熱をもって反射熱を放つこともない。そしたら気温以上に夏は暑くなりません。
電化製品がないから冬は確かに寒いけど、着物着てるから実際それ程感じない。
温水器がないしガスもないから「風呂だ!!」っつっても直ぐに入れませんが、御湯が沸くまで待った分入った時の充足感は格別です。
さっきも言いましたが夜は蝋燭の明かりだけだから月明かりが綺麗だし、空に電光が広がらないから星だってよく見える。
蝋燭の火って、結構な光を放ちます。家の中で行動する程度なら何の支障もありません。
いいなぁ・・・そんな生活。その中に身を置けない自分の境遇をどれだけ悲しんだか数知れません。
現代人は、殊日本人は「新しいもの」ばかりを求めていますが、必ずやそこに価値あるものが見つかるとは限りません。
自分達が捨ててきた数え切れない伝統や歴史の方が、比べ物にならないほど大事ってことがある。
いい加減、気づかなきゃいけないと思います。
新しく生み出されるものに然程の満足を得ていないことにも。
サイクルが速まってますよね。流行なんてとくに。それって、要するに直ぐ飽きるってことでしょう?
新しく生み出されたものに対する興味が長続きしない。
本当の意味で気に入ってない、満足してないからじゃないんですか?
周りに合わせてるだけって人もいるでしょうが、例えそうであっても、気に入ったものがあれば大事にするはずです。
新しいものならば満足できるという時代は、当の昔に消えていると思います。
人間は、いつまでも同じ要領で楽しみを味わえない生き物ですから。
新しいものを求めることのみに囚われていては、限界はすぐそこにあると思います。
こんなに素晴らしい先達の歴史と行いがあるんだから、そこに眼を向けてみて下さい。現代に生み出される新しいものなんか比ではない素敵なものが、幾らでもあります。
伝統を守れと強要している訳ではなく(ボクは伝統を守っていきたいと思ってますが)
「昔のものにしかない価値を見る眼を養ってほしい」ということです。
皆と同じ視線に立っていては、自分にとって必要なものは見えてきません。
自分は自分の見るべきものを見ないと。
所詮自分以外は他人です。考えも見方も違う。それに合わせることが相手にとっていいと思っているなら、その考えは直ぐに捨てた方がいいでしょう。
相手にも自分にも不利益なことをしている。
自分は、真に必要なものを見つめる機会を逃している。
相手にとっては、違う視点と意見を得る人材を一つ失わせています。
相手にとって、自分は一つの別個体、意識をもつものだということを認識していない証拠です。
「他人の前でどれだけ自分が意味をもてているのか」、それを念頭において生きていかないと流されます。
自分の意味は自分でつけてやらないと。誰も与えてくれるものではありませんから。
何となくでも立ち位置さえ掴めれば、方向性だって見えてくる。一つのものから世界が広がることはよくあります。
周りに巻き込まれて同じ方向見てたんじゃ、勿体無いですよ?
周囲に倣って前にあるものを捕らえに行くのがイマイチだなって思うなら、振り向いてみればいいんじゃないかな。
ずっと気づけずにいたものが沢山あると思います。
昔のものを振り返る機会、見つけてみてください。
幸村は、オススメします。
先週までは全く蝉の合唱が耳に入らなかったのに、昨日家を出た瞬間にその声を浴びた幸村です。
すごかったなぁ。一年振りに聞くと感慨深いです。
「おっ!夏だな!!」
って、胸がウキウキしちゃった。
網戸に蝉さんが張り付いていた時も夏を感じましたが、やはり合唱となるとインパクトが違いますね。
突然の雷雨や色濃くなった影も充分夏の訪れを感じさせますが、最後にはやはり蝉の声。これがないとね!
しかし、昨夜は随分と秋っぽい夜でした。
蒸し暑さは梅雨にも劣りませんでしたが、何となく、肌を撫でる風と周囲の空気がさらりとしていて不気味だった。
今も、部屋を抜ける風がひんやりとしています。雨上がりだから・・・?いやそんなんじゃあないと思います。雨降ってないし。
・・・ここ数年、まともな季節ってないからなあ。どれもこれも何だかおかしい。
そのうち四季が有耶無耶になってしまうのではないかと、心穏やかではありません。
平安時代はこんなんじゃなかったんだろうな。
もっともっとどの季節も清清しくて、夏もこんなに不快じゃなかったと思う。
冬は今よりずっと寒かっただろうから、しのぐのは辛いけど・・・。秋の月は想像出来ないほど美しかっただろうな。
空気が違うんだもの。眼に映るものの色合いは全然違うと思う。夜空の色も違うんだろうな。
空には一切区画もない。電線が張り巡らされていないんだ、何処までも遠く一面のみの空が広がっている。
プロフィールにもありますが、幸村は平安時代が好き。
平安時代の何もかもがとても懐かしく思われます。
中学生の時だったかな。ふと気づいたことに涙が止まらなくなった。
「・・・・あぁ、ボクは平安時代にはいけないんだな」と。
そんなこと、気づくも何も当然のことです。それまでだって分かってた。
でも本当の意味で理解した瞬間、胸が引き裂かれるような思いで居た堪れなくなってしまった。自分がその場に行けないことがこんなにも辛いことだなんて思いもしなかった。
一千年前の日本が、本当はどんなものだったのか。この眼で確かめることは叶わない。
資料集に代表される平安時代って、京の都、特に平安京は内裏などが殆どです。一見優雅に思えますが全国津々浦々一様である筈がない。平民達の暮らし振りとかも見てみたいんだけどな・・・。
平安の昔、そこでワタシは男だったと思います。幾つか数は踏んでるでしょうけど、前世の一つがそれだと思う。あくまで自己判断ですが。
殿方の衣装を始め、彼等の機微も含めて全てが懐かしくて懐かしくて・・・物狂いになりそうなくらいです。
平安時代を始め電気の無い生活って、憧れます。(そして無性に懐かしい。)
だって、夜は蝋燭や油の火で過ごすんですよ!こんなに素敵な宵の過ごし方はありません。
星空が冴え渡り月影が屋敷の何処までものびる。そんな中、几帳越しに人と面会するとドキドキしてしまいます。
無駄な音が一切無く、それぞれの季節の中で鼓動を持つものと実態をもたないものたちが共存している。
冷蔵庫やレンジがないのがその時代の常ですから、そこで生きていれば困ることもありません。今突然に全ての電力が落ちれば人間は文明の殆どを失いかねませんが、その昔は電気のない生活をしていたんですからやって出来ないことはない。
地球存続の危機がどーたらこーたら言ってるなら、少しづつ昔の生活に戻していけばいいのにって、中学の頃から思ってました。
「そんなの無理無理」って言ってしまえばそれで御終い。
頭つかってくださいよ。飾りじゃないんだから。
今の生活が地球にも人間にも合っていない。ならば、先達の行いを実行すればいいんですよ。
どこか一つのパーツを動かせば、自然とその周りにあるパーツをそれに合わせて動かさないといけなくなる。そうやって時間をかけて一個一個変えていくしか方法はありません。一瞬で全てに変化をもたらせるなら、人間は今こんなに悩んでません。
一つづつでも変えていけるなら行動に移さないと勿体無い。難しく考えることはありませんよ。最終的に全てが変容を遂げていればそれで成功なんです。
結果の良し悪しは無論大切ですが。
平安時代の生活、ワタシは日本人に一番適したものだと思うんですがねえ・・・。
何もあれ程のんびり生きろと言っている訳では御座いませんよ。生活の仕方をそれにしたら温暖化やら何やらの対策になるんじゃないかなって。
ほら、家の中でクーラー使わないし、車使わないし、道は一切が土ですからヒートアイランドなんて起こらない。家屋は木造ですから壁が熱をもって反射熱を放つこともない。そしたら気温以上に夏は暑くなりません。
電化製品がないから冬は確かに寒いけど、着物着てるから実際それ程感じない。
温水器がないしガスもないから「風呂だ!!」っつっても直ぐに入れませんが、御湯が沸くまで待った分入った時の充足感は格別です。
さっきも言いましたが夜は蝋燭の明かりだけだから月明かりが綺麗だし、空に電光が広がらないから星だってよく見える。
蝋燭の火って、結構な光を放ちます。家の中で行動する程度なら何の支障もありません。
いいなぁ・・・そんな生活。その中に身を置けない自分の境遇をどれだけ悲しんだか数知れません。
現代人は、殊日本人は「新しいもの」ばかりを求めていますが、必ずやそこに価値あるものが見つかるとは限りません。
自分達が捨ててきた数え切れない伝統や歴史の方が、比べ物にならないほど大事ってことがある。
いい加減、気づかなきゃいけないと思います。
新しく生み出されるものに然程の満足を得ていないことにも。
サイクルが速まってますよね。流行なんてとくに。それって、要するに直ぐ飽きるってことでしょう?
新しく生み出されたものに対する興味が長続きしない。
本当の意味で気に入ってない、満足してないからじゃないんですか?
周りに合わせてるだけって人もいるでしょうが、例えそうであっても、気に入ったものがあれば大事にするはずです。
新しいものならば満足できるという時代は、当の昔に消えていると思います。
人間は、いつまでも同じ要領で楽しみを味わえない生き物ですから。
新しいものを求めることのみに囚われていては、限界はすぐそこにあると思います。
こんなに素晴らしい先達の歴史と行いがあるんだから、そこに眼を向けてみて下さい。現代に生み出される新しいものなんか比ではない素敵なものが、幾らでもあります。
伝統を守れと強要している訳ではなく(ボクは伝統を守っていきたいと思ってますが)
「昔のものにしかない価値を見る眼を養ってほしい」ということです。
皆と同じ視線に立っていては、自分にとって必要なものは見えてきません。
自分は自分の見るべきものを見ないと。
所詮自分以外は他人です。考えも見方も違う。それに合わせることが相手にとっていいと思っているなら、その考えは直ぐに捨てた方がいいでしょう。
相手にも自分にも不利益なことをしている。
自分は、真に必要なものを見つめる機会を逃している。
相手にとっては、違う視点と意見を得る人材を一つ失わせています。
相手にとって、自分は一つの別個体、意識をもつものだということを認識していない証拠です。
「他人の前でどれだけ自分が意味をもてているのか」、それを念頭において生きていかないと流されます。
自分の意味は自分でつけてやらないと。誰も与えてくれるものではありませんから。
何となくでも立ち位置さえ掴めれば、方向性だって見えてくる。一つのものから世界が広がることはよくあります。
周りに巻き込まれて同じ方向見てたんじゃ、勿体無いですよ?
周囲に倣って前にあるものを捕らえに行くのがイマイチだなって思うなら、振り向いてみればいいんじゃないかな。
ずっと気づけずにいたものが沢山あると思います。
昔のものを振り返る機会、見つけてみてください。
幸村は、オススメします。
プロフィール
HN:
幸村玖月
HP:
性別:
非公開
趣味:
ストレッチ。歌。シャドーイング。
自己紹介:
≪座右の銘≫
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助
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2012年7月からがベイベー記事。
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