おはようございます。こんにちは。こんばんは。
泣いた、幸村です。
仕事帰り。
この辺りでは1、2に入るほどの大掛かりな花火大会と祭り―――
―――を、車の中からチラチラ見る。
←人混みに飛び込む勇気はなかった。
祭りの開催地は少し離れていたから直に見てはいないけれど。
高台になる度に、花火がチラチラと見えた。
とても遠くまで来たのに、建物と建物の間から見える。
ふと、道沿いの影が途切れた瞬間、
花火まで突き当たるくらい開けた視界。
そこに、真っ白な大輪の枝垂れのような花火が飛び込んできた。
あまりにも予想外で。
あまりにも綺麗で。
車の中で号泣。
あれは反則だ。
儚いくせにどこまでも魅力的でさ。
あっと言う間に消えてしまうのに、いつまでも余韻を残す。
思えば、打ち上げ花火なんて何年ぶりだろう?
音を聞くこともあの輝きを眼にすることも、
随分なかったからなあ。
琴線に触れたらしい。
+ + +
ちょっと真面目な独り言。
最近の出来事を色々振り返るとさ、
最近、自分は飢えてるんだろうなって思う。
生きるとこや死ぬことに頭を抱えて悩んでた、あの感覚に似てる。
真実や事実、自分や他人、理想と現実。
自身の存在理由とか意義とか、
兎に角色んなことが混沌としてて歯痒かった、あの時期に似てる。
言葉一つ綴るのにも、ものすごく神経を研ぎ澄ましていた頃にも似てる。
大人に対して冷めた視線を向けてた時期っていうか。
他人との距離を推し量ってしまう躊躇いとか自分を打破したい苛立ちとか。
一番苦しかった時期っていうのかな。
鈍くなってたんだ、あの頃より。明らかに。
それは、自分でもよく分かってた。
色んなことに、痛みを感じなくなってきたから。
心がなくなったわけじゃない。
柔らかくなくなってた。
硬いんだよね。表面が。
ど真ん中には、まだまだ柔らかい部分があって、
それはきっと、息を吹きかけるだけでも皮が剥けて血が出てくるほど敏感なもの。
でも、そこを覆う膜が、どんどん鈍化してきて硬くなってきて、
表面に触れても奥まで届かない。響かない。
殆どのことが、響いてこない。
だから、当時涙してたことも、すっかり平気になってたり忘れちゃったり。
忘れることは悪ではないし、あって当然の現象だから、
それは悲しむことでもないんだろうけど。
ただ、鈍くなったことで自分の信念や感性が失われるのは嫌だった。
何より、感じなくなるのが怖い。
最近、ものすごく心が敏感になってるのが分かる。
あの頃、綺麗なものをみると胸が痛んだ。
ショーウィンドウの前に立つと、恵まれた国にいるんだなって思い知らされるから。
世界には、そうじゃない場所だってあるのに。
感謝もするけど、うしろめたくもなる。
全部、無駄じゃないの?って思えてくることもあった。
自分たちで処理しきれないものがあるなら、
本当に必要としている人の許へ届けてあげればいいのにとか。
いろいろ。
そういうの、すっかり忘れちゃってたんだよね。
でも、自分の中の感覚や、自分にしか出来ないものを突き詰めると、
そういう部分って結構有益だったりする。
自分は何が好きで、何が嫌いなのか。
何を許せて、何を許せないのか。
何がほしくて、何を求めていないのか。
そもそも、自分の自然な感覚って何なの?とか。
あの子がこう考えてるから自分もそうあるべきだ、なんて思わないし、
この子がこうしてるから自分もそうしたいと思ったこともない。
無いもの強請りは、やっぱりあるけど。
「あんな声いいな」とか「ああいう性格っていいな」とか。
自分の憧れに近いものを持ってる人には、
少なからず羨ましさを抱いてしまうけれど。
それでも、自分の物差を変えようと思ったことはなくて。
最終的に、やっぱり自分は恵まれているなあというところに落ち着いたりする。
どんな努力をしようと変更できないものに対して失望したりもするけど。
恨んだこともあったし。
でも、それって無意味なんだよね。
だって変えられないんだし。
選べないものって、誰にでもあるし。
その範囲内でどこまでいけるかってのも、個人個人の人生だろうしね。
まあ、何はともあれ。
感覚が戻ってきたのは、すごく喜ばしいことだよね。
「憧れる暇があるなら見習え」
「どうせやるなら大胆に」
≪見習いたいひと≫
・及川光博
・野村萬斎
・ペ・ヨンジュン
・四代目猿之助